雨上がり 後編・桜のブローチ

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雨上がり 後編・桜のブローチ

 昨日の今日で、もう写真のプリントが出来たと谷崎が教えてくれた。  それならばすぐ見たい、今見たいという真純の我がままな願いを聞き入れ、今、彼は写真を部室に取りに行ってくれている。  ひと気のない放課後の教室で、谷崎を待つ。その間、彼に話を聞いてもらった昨日のことをゆるゆると思い出していた。  口にしてしまえば、何ということのない話だったのだ。真純の悩みとは、これからの進路のことだった。  中学三年生、受験という言葉が重くのしかかってくる年だ。  友達と話をしていると、みんなは先のことを考えているようで、高校はどの科を選ぶか、推薦入学のこと、色々な情報をシャワーのように降らしてきた。  真純はと言えば、高校について、これまで全く考えていなかった。進路よりも、目の前の行事のことばかり見ていた。  体育祭や文化祭、遠足、修学旅行。必死という言葉がつくくらい、それらを楽しもうとしていて、その先にある高校受験のことまで考えが及ばなかったのだ。呑気といえば呑気なものである。  リオは「ソフト部が強い学校に行く!」と、すでに希望校を絞り込んでいた。部活をしていない真純にとっては、そういう選択肢があることが羨ましかった。  つまりは、「どこの高校に行けばいいかわからない」という悩みだ。  それに対する谷崎の答えは、「そういえば俺も考えてないな」だった。呑気な人がここにもいた。真純は正直驚いた。  真面目な彼のことだから、進路のこともきっちり決めているだろうと思ったのに。  写真部のある学校に行くのかと訊くと、そういうわけでもないらしい。部があれば入るけど、なければないで大丈夫。写真は一人でも撮れるから、という返事だった。 「じゃあ、進路が決まってないもの同士だな」  谷崎はそんな風に言って、笑った。  これまで考えていなかったのなら、これからゆっくり考えればいい。まだ時間はある。そう話す谷崎の落ち着いた声は、真純をとても安心させてくれた。  蒼くんに話を聞いてもらえて、良かったなあ。  本当にそう思った。今でも思っている。  だけど……どうしてだろう? 真純の心にはまだ、ほんの小さな引っ掛かりがあった。  そのとき、真純の頭に何か軽いものが乗せられた。ぱさりと紙のような音がする。 「机にめり込んで、どうした」  続いて谷崎の声がして、驚いて顔を上げる。その弾みで頭から滑り落ちた紙のようなものは、封筒だった。もちろん中身は昨日の写真だろう。  考え事をしていたせいか、谷崎がそばに来ていることに全く気づいていなかった。わざわざ写真を持ってきてもらったのに申し訳ないと、真純は肩をすぼめて謝った。  谷崎はそんなことなど気にしていないと軽く笑い、真純の前席にある椅子の向きを変えると、向かい合うように腰を下ろした。 「これが、例の写真……」  どんな景色だろう。何を映しているんだろう。封筒を眺めて胸を弾ませていると、 「こういうのは、前置きが長いと恥ずかしくなってくるからな」  そう言いつつ、谷崎は封筒から写真を素早く引き出した。せっかく写真への期待感に浸っていたのに、と真純が文句を言うと、「そんなものに浸らなくていい。ハードルを上げるな」と釘を刺されてしまった。  自分の写真を人に見せるということに、まだ照れがあるらしい。  蒼くんの恥ずかしそうな表情が見られたから、まあ、いいことにしよう。真純はそう思いつつ、写真鑑賞をするために頭を切り替えた。  そこは白黒の世界だった。  モノクロフィルムで撮るときは、現像もプリントも谷崎本人が手掛けているのだと聞いた。全てが彼の作った世界だった。  言われなければ、体育館裏で撮った写真とはわからなかっただろう。印画紙全体に、昨日見た水溜まりが大きく映っている。  水溜まりの中には、真純がいた。  中心ではなく端のほうにひっそりと映っている姿は、何かを見上げているようだった。桜の木を見ていたときかな、と思い起こす。  真純の顔は、表情が何となくわかるくらいには映っていた。少し冴えない。自分でも理由の分からない「引っ掛かり」を感じていた、そのままの感情が出てしまっている。  こんな顔して、恥ずかしい。  そう思ったのは一瞬だけだ。何より目を奪われたのは、水面にいる真純の肩あたりに浮かんでいる、一枚の花びらだった。  桜の花びらが、寄り添ってくれているようだと真純は思った。  浮かない顔をしている真純を、気遣ってくれているようだと。 「ありがとう……蒼くん、素敵な写真、見せてくれて。花びらがすごくきれいだね。私、桜のブローチをつけてるみたい」  胸が一杯になってしまい、お礼を言う声は震えていた。それでも谷崎は訝しがる様子を見せず、真純の言葉に頷いた。 「ブローチか。花の場所が肩じゃなかったら、もっとそれっぽく見えたかもな」 「うん……あのね、私、蒼くんに相談に乗ってもらったのに、まだ少しもやもやしちゃってて、どうしてだろうって思ってたんだ」 「ああ。何となく、そんな気はしてた。めり込んでたし」  おどけた口調の谷崎に、めり込んでないよと唇を尖らせて見せてから、真純は言葉を継いだ。 「この写真を見たらね、なんだか感動しちゃって。それで、もやもやの原因がわかった気がしたの」  春の桜の木は、瞬く間に姿を変える。花が散っても、それを惜しむ素振りなど見せずに若葉を茂らせていく。  進路のことをきちんと考えている友達もそうだった。自分のやりたいことを見つめて、前も見据えて、成長していく。  その姿に、真純はなぜか、自分が置いて行かれたような気がしていた。  ……というようなことを、真純は谷崎に話した。 「たとえば、体育祭にちゃんと出たい、とか、できるだけ学校を欠席したくない、とか。そのレベルで精いっぱいで、先のことなんか考えてなかったんだよね」 「ああ、体育祭、本当に精一杯張り切ってたな」  懐かしそうに目を細める谷崎に、真純は少し恥ずかしくなった。彼の目には今、どういう光景が見えているのだろう。失敗した自分の姿じゃなければいいけれど、とこっそり思う。 「でね、先のことを考え始めたら始めたで、自分にはやりたいことや得意なことってないなって気づいちゃって。そんな感じで自分の中身が空っぽでふわふわしてるから、みんなみたいに前に走り出せないのかなあ、って……」 「……何だか、ややこしいこと考えてるんだな」 「えっ、そうかな? うーん、一人でごちゃごちゃ考えてたらダメだねえ」 「とにかく先行き不安ってことでいいのか」  短くまとめてくれた。確かに谷崎の言う通りで、真純は「そうです」と頷くしかなかった。 「だからかな、この写真の花びらが私の傍にいてくれるのが、すごく嬉しいって思ったんだ」 「花だけじゃない。誰も、置いて行ったりしない。真純のこと」  谷崎の呟くような声が、即座に返ってきた。少し視線を逸らしているのは、気恥ずかしさがあるからだろうか。 「うん……うん」  言葉をたっぷり胸に染み込ませてから、真純は返事をした。また声が震えてしまう。  あらためて考えると、本当にそうだ、と思った。誰も自分を置いて行ったりしない。今だってこうして谷崎が話を聞いてくれる。リオ達だって、真純が困ったらいつも助けてくれる。  不安に思うことなんてないのにね。だけど不安だったからこそ、こうして寄り添ってくれる存在の大切さに気付いたのかも。  そう思った真純は、感謝の気持ちを伝えようと顔を上げた。が、先に口を開いたのは谷崎だった。 「それに、空っぽじゃないだろ。得意なことなら、もうある」 「えっ?」 「家庭科。マフラー作ってくれただろ。あれ、すごく良く出来てた」 「あ、え、そうかな……ありがとう。確かに頑張って編んだけど……」  自分のしている裁縫や編み物が、「得意」につながるとは思わなかった。真純にとってはあまりにも身近で、日常を表すものだったから。 「得意って思っても、いいのかなあ」 「いい」  真純の呟きに間も置かず答えが返ってきた。当たり前のように断言する谷崎が何だかおかしくて、声を出して笑った。  笑った分だけ、心が軽くなっていくみたいだった。  家庭科がこの先、進路を決める切っ掛けになるかどうかはまだわからない。けれど、ふわふわしていた気持ちに一本の芯が通ったように思えた。  その芯は体の重心になって、よろけずに歩き出せそうな気がした。急に走れなくても、一歩ずつなら踏み出せるかもしれない。 「ありがとう、蒼くん。私にも出来ることがあるんだよね。ちょっと気持ちが楽になったよ」 「もやもやはもう、大丈夫なのか」 「うん! さっきまでは進路のこと考えたら気分が重かったけど、もうそんな感じしないよ。高校のことも、ちゃんと考えて決めたいって思えるようになったよ」 「そうか、なら良かった」  安心したように谷崎は何度も頷く。きっと真純のことを本当に心配してくれていたのだろう。写真の花びらと同じように、谷崎の心も、真純に寄り添ってくれているのだと思った。  嬉しくて何度もお礼を言うと、谷崎は「もういいから、わかったから」と雑に手を振って止めようとする。その照れた姿を見たくてさらに続けると、今度は髪の毛をぐしゃぐしゃにかき混ぜられてしまった。  しばらく笑いあったあと、二人で明日のことについて話す。とりあえず、行けそうな高校について調べてみようということになった。  高校、そしてその先。知らないことに踏み込んでいくのはやっぱり少し不安だ。  けれど、谷崎の写真を見る前には胸が高鳴るように、素敵なものに出会えるかもしれないという期待だって、確かにある。  真純は今、そんな風に感じるようになっていた。  写真の中で桜のブローチがついていたのは、この辺だっけ。真純はふと、肩のあたりに触れてみた。  触れた手が温かいように思えるのは、気のせいだろうか。  それは谷崎がくれた温かさだ。  ぬくもりは確かに自分に届いているよと伝えたくて、真純は谷崎に向かって、顔いっぱいに笑って見せた。
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