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すこやかな日々
「やっぱり、熱出たか」
「うん、蒼くんの言うとおりだった」
電話越しに聞こえる蒼くんの声が、耳に心地よく響く。
「今日の公園、中止にしといてよかった」
「ごめんなさい、写真撮りに行く予定、変更になっちゃって、本当に……」
「そんなに謝るな。今みたいな梅雨時は急に寒くなったりするし、体調崩しやすいだろ。今度、また行けばいい」
蒼くんの声が優しいからか、もっと申し訳ない気持ちになってしまう。今度、かあ。
「今、口がへの字になってるだろ」
「えっ、そんなのわかんないよ」
からかい気味の口調で言われ、反射的に自分の唇に触れてみる。あ、確かに口の端が下がってる、かも。
「本当だ。顔のことも体調のことも、私より先に気がついちゃうなんて、蒼くんはすごいなあ」
「呑気に感心してる場合か……無理に電話しなくてもいいんだぞ」
「文字を見たり打ったりしてると目がぼやけてきちゃうんだよね。だからこうして直接話したほうが楽なんだ」
目だけではなく、頭もぼうっとしている。枕元に置いてある本は内容が脳に入ってこないため、二、三行読んだだけで閉じてしまった。
けれど、頭の芯ではずっと何かを考えていた。お姉ちゃんが買ってきてくれたプリンおいしかったな、今日はお隣の犬が嬉しそうに鳴いてたな、なんてとりとめなく色んな物事が浮かぶ。
その中で、何度も頭に浮かんだのは、やっぱり……
「……いや、字も読めないんじゃ楽って言わないだろ。無理して話さないで、ちゃんと寝てろ」
「あっ、待って。私、蒼くんの写真が見たくって。新しいのがあれば送ってくれると嬉しいんだけど……」
蒼くんに通話を打ち切られると思った私は、慌てて頼み込んだ。そう、さっきから心の大部分を占めているのは、「蒼くん、新しい写真撮ったかなあ」ということだった。
写真を見たい、というだけなら、これまでにもらった写真がたくさんある。デジタルの画像でも、印画紙に焼き付けられたものも、もれなく両方たっぷりと。
多分、私が見たいのは写真だけじゃないんだと思う。蒼くんが撮りたいものを見つけて、構図を考えながらカメラを構えて、一番いい瞬間にシャッターを切る。
撮りたいものと真剣に向かい合っている蒼くんは、とても眩しい。だから、写真を通じて感じられる彼の姿を、もっと知りたいんだ。
そんな想いが届いたのか、蒼くんは諦めたような溜息をついて、画像を送ってくれた。
「一枚だけだぞ」
「十分です。ありがとう!」
すぐ画面に触れて確認する。写っているのは植物だ。青々とした緑の葉が生い茂っている。雨上がりに撮ったのか、葉っぱにはころころとした水滴が乗っていて、宝石みたいだと思った。とてもきれい。
「これ、何の植物だろう。見たことある、と思うんだけどなあ」
「答え、言うか?」
考える私に、蒼くんが笑みを含んだ声で聞いた。
「うん……あ、わかった!」
教えてもらおうとしたけれど、答えがひらめいた。ひとめで分からなかったのは、私の目がぼやけているせいでもあるけれど、花が葉の奥に隠れているくらいの小さな蕾で、まだ色づいていなかったから。
「紫陽花でしょう?」
「正解」
「やったあ!」
手を小さく上げて喜んでいると、電話の向こうから、吹き出すのをこらえようと格闘しているような音がした。そしていつものように、自分の感情に負けてしまったらしく、蒼くんの笑い声が聞こえてきた。
笑う合間に、「真純のドヤ顔が目に浮かぶ」とか、「何でそんなに得意気なんだ」とか言っていた気がする。そんなにおかしかったかなあ。
いつもなら、「何でもないことで笑いすぎだよー」とツッコミを入れるところだ。けれど、今日の私はつられて笑ってしまっていた。
写真画像を送ってくれた蒼くんの気持ちが嬉しくて、笑ってくれることはもっと嬉しくて、その笑い声を私だけが聞けることが幸せで。
ほんの小さなことだけれど、宝物のような時間だと思った。さっき写真に見つけた、葉の上の水滴みたいに。
雫の宝石は儚くて、いつかこぼれ落ちてしまう。電話で話している時間だって、同じようにすぐ終わってしまう。だけどこっちの宝石は大丈夫。私は胸元で手を握りしめ、思った。
だって、優しさも笑い声も胸の中に、しっかり染みこんでいるんだもの。
このことを蒼くんに言ったら、「熱のせいだから」って返されちゃうかなあ。まあ、頭がふわふわしているのは確かだけどね。
寝込んでいても、きれいな景色を見せてもらえる。頭がぼんやりしてても、嬉しい気持ちは湧いてくる。
今の私、病気でも、元気だ。
テンションが上がった勢いで何度も写真のお礼を伝えていると、蒼くんは、「もういいって」と照れくさそうにしながらも、撮った画像について語ってくれた。
「反応もらえてよかった。これ、今日撮ってきたんだ」
「えっ、今日? やっぱり予定通り写真撮りに行ってきたの?」
「カメラは持っていってない。まあ、どこ撮るかあんまりウロウロしなくていいように、下見っていうか……歩いてたら紫陽花に気付いて」
あ、そうか。
蒼くんの気持ちが、わかった気がした。今度の撮影に行くとき、たくさん歩いて私が疲れたりしないように、前もって考えてくれていたんだ。
じわりじわりと、蒼くんの気遣いが染みてくる。
「紫陽花が咲くのはまだ、これからだ。真純の体調が良くなってからでも十分間に合う。今度は二人で見に行こう」
今度。普段なら、この言葉を聞くと不安になってしまうところだ。今日みたいに体調を崩して約束を守れないことは、昔からよくあった。
そのたびに家族や友達、周りの人たちはみんな、私をなぐさめようとして「また今度ね」と言ってくれた。もちろん気を遣ってくれたことが嬉しかったけれど、その「今度」は二度と訪れないことが多くて、悲しかったんだ。
だから、蒼くんの「今度」は嬉しかった。言葉にくっついていた不安がはがれて、素直に受け取ることができるようになった。「今度」は二度と訪れない日じゃなくて、必ずやって来る日になったんだ。
「うん……うん、ありがとう! 私、いっぱい寝て、早く良くなるよ。蒼くんと一緒に、紫陽花見に行く!」
この喜びが電話の向こうまで届きますようにと願いつつ、両手で電話を握りしめて伝えた。
「わかった、わかった。あんまり興奮するなよ。熱が上がる」
とりあえず私の必死感は伝わったみたいだ。蒼くんの声が今にも吹き出しそうに震えていたから。
「大丈夫だよ。私、蒼くんのおかげで、すごく元気」
「寝込んでる奴が何か言ってる」
「えへへ……」
からかわれちゃったけれど、口に出して言ったら、本当になったかも。頭が少しすっきりした気さえするもの。
もう少しお薬が欲しいと、蒼くんの声に耳を澄ます。水分をしっかり摂れよ、なんて言葉に、何度もうんうんと返事をする。
今日の私は元気だ。明日には熱も下がって、もっと、もっと元気になっているだろう。
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