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わたしのかわいそうなお友達
「紬ちゃんの新しいワンピース、今日のもすっごく可愛いね!」
「ありがとう。昨日、ママと一緒にお出かけした時に買ってもらったの」
奈々ちゃんが「へえぇ」と感嘆の声をあげながら、食い入るようにわたしの装いを見つめてくる。シンプルな白のワンピースだけど、背中の腰あたりにくっついている大きなリボンがアクセントになっていて可愛らしい。お気に入りのブランドの最新作。
「紬ちゃんは、いつもおしゃれなお洋服を着てくるよね。それも、毎回違うやつ」
「奈々ちゃんも、ママに買ってもらえば良いじゃん」
わたしがきょとんと首を傾げたら、奈々ちゃんは真ん丸の瞳を瞬いて、眉尻を下げた。
「うーん……この前の誕生日に買ってもらったばっかりだし、たぶんダメって言われちゃうだろうなぁ。家は、紬ちゃんのお家と違って、お金に余裕がないから」
奈々ちゃんが、わたし達の間に流れた微妙な空気をにごすように笑った時、ちくりと胸の辺りが痛んだ。
そっか。
奈々ちゃんが、そのタータンチェックのスカートばっかり履いているのは、単に気に入っているからというわけではなかったのだ。言われてみるまで、考えてもみなかった。
「次のチャンスはクリスマスかな! サンタさんに頼んでみるっ」
わたしは、これが欲しいと指差せばそれがいつでもなんだって買ってもらえるのが、当たり前だと思っていた。でも、違ったのだ。わたしの当たり前は、奈々ちゃんにとっての特別だった。
なんて返事をすれば良いのか分からなくなって口を噤んでいたら、分かれ道までたどり着いてしまった。わたしの帰り道はこのまま真っ直ぐで、奈々ちゃんのお家は左に曲がった方の道沿いにある。
「紬ちゃん、また明日ねー。ばいばい!」
「あっ、うん。また明日ね」
奈々ちゃんが手を振ってわたしの隣から立ち去った時、載せられていた重しをどけてもらえたように身体から力が抜けた。
十二歳のこの時、わたしは、自分が友達よりも裕福で恵まれている人間なのだとはっきり自覚した。
*
小学校を卒業して、わたしと奈々ちゃんは同じ中学校に入学した。今は、入学式の帰り道。既に葉桜になりかけている街路樹の立ち並ぶ通りを、二人で肩を並べながら歩いている。
わたしの袖を通しているセーラー服は、ぴかぴかの新品。うららかな陽光を吸い込んで、ほんのり白く輝いているようにも見える。それに比べて奈々ちゃんの着ている制服はというと……気のせいか、薄汚れてくすんでいるように思える。ローファーもどこかくたびれていて、光沢がない。
新しいものは、買ってもらえなかったのだろうか。
奈々ちゃんのお家は、貧乏だから。
「やっぱり、見てすぐに分かる?」
「えっ」
頭の中身を覗き込まれたようで、心臓が嫌な風に飛び跳ねた。
奈々ちゃんは小さくため息をついて、「はは」と力なく笑った。
「この制服とローファー。お姉ちゃんのお下がりなんだよねー」
「そ、っかぁ」
「紬ちゃんの制服は、ぴかぴかだね。これぞ新品! って感じ」
奈々ちゃんは、わたしの制服をじっと見つめた後、眩しいというように瞳を細めて薄く微笑んだ。
『紬ちゃんにだって、三つ年上のお姉ちゃんがいるのに。紬ちゃんのお家はお金持ちだから、紬ちゃん用に別の新しい制服を買ってもらえたんだね。紬ちゃんばっかり、ズルいよ』
二人の間に垂れ込めた沈黙から、奈々ちゃんの心の声が漏れ聞こえた気がして、肌がざわりと粟だった。鼓動がどくどくと高鳴って、うまく息をするのが難しい。急に、周囲の気温が数度下がったような気までしてくる。
奈々ちゃんが「あれ?」と足を止めて、じっとわたしの顔を覗き込んだ。
「紬ちゃん? 顔色、悪いよ」
心に染み出した黒い汁が身体いっぱいに浸透していくのを、止められない。
「えっ、と。わたし、今日習い事があるから、早く帰らなきゃだ」
あっ。
こんなに簡単に出鱈目を吐き出せる自分に、驚いた。
「習い事って、ヴァイオリンだっけ。でも、月曜日じゃなかった?」
「この前、お休みしたから今日は振替日なのっ」
「そうなんだ。入学式の日から、大変だね。がんばって」
奈々ちゃんを置いて、駆け足気味で帰路につきながら、気持ちが悪くて仕方なかった。鉛を飲み込んでしまったみたいに、身体が重たい。
友達に、嘘を吐いてしまった。
一刻も早く、あの何もかもを見透かしていそうな瞳から逃れたくて、つい。
*
中学校に入学してから、早くも一か月近くが過ぎ去った。通学路に並び立つ街路樹はすっかり残りの花びらを落としきり、今では瑞々しい緑の葉っぱを輝かせている。
わたしと奈々ちゃんは、中学では別々のクラスになったけれども、小学時代と変わらず一緒に登下校し続けていた。ほとんどの子達が何かしらの部活には所属する風潮の中、わたしたちは珍しくどこの部活にも入らなかった。
わたしが帰宅部を選んだのは、幼稚園時代から続けているヴァイオリンの習い事に加えて、中学に入ってからは塾にも通い始めたので今まで以上に忙しくなったからだ。
でも、奈々ちゃんが部活に入らなかったのは、意外に思えた。
「ねえ、吹奏楽部に入らなくて良かったの? ブラバンでトランペットを吹いてる奈々ちゃん、すごく格好良かったのに」
わたしの問いかけに、奈々ちゃんが弾かれたように振り向いた。それから、「あー、うん。続けたかったといえば、続けたかったんだけどね」と前置きをして、地面を見つめながらさらりと続きを口にした。
「中学生になったら、お姉ちゃんと一緒に家事を手伝おうって決めてたから」
家事を、手伝う。
あまりにも自然な流れで発せられたその響きを、瞬時に、呑み込むことができなかった。わたしの戸惑いに気づいた様子もなく、奈々ちゃんは淀みなく言葉を続ける。
「お母さんが病気がちでさ、酷い時は、長い間ずっと寝込んじゃうの。今までは、お姉ちゃんが一人でお母さんの看病をしたり、家事を手伝っていたりしたんだけど、わたしが手伝えば少しはその負担が減るでしょ?」
奈々ちゃんが、「トランペット続けられないのはちょっと残念だけどねー」とぼやいているのを耳にしながら、聞いてしまったことを早速後悔している自分に気がついて嫌気がさした。
胸の内側を、嵐のような感情がごうごうと吹き荒れる。
一年に一度しかやってこない特別な日にしか、好きなお洋服を買ってもらえない。制服もローファーもお姉ちゃんのお下がりで薄汚れている。挙句の果てには、お家の事情で、好きなトランペットを続けることすら叶わない。
哀れだ。
奈々ちゃんは、なんてかわいそうな子なのだろう。
隣で呑気に背筋をのばしながら、「やっと、お姉ちゃんに楽をさせてあげられる。まぁ、今はまだ、どっちかっていうと足手まといになっちゃってるけど」なんて口にしている奈々ちゃんが、わたしには見ていて痛々しかった。
奈々ちゃんにとっての唯一の救いは、自分がかわいそうな人間だと自覚していないことぐらいだと思ってしまった。
「ねえ、紬ちゃん」
突然、少し大きめの声で名前を呼ばれて、肩がびくりと飛び跳ねる。
「なに?」
「今、わたしのことをかわいそうだなって思ってたよね?」
直接、素手で心臓を掴まれたみたいに、動悸がした。
「そんな、ことは」
どうしよう。今すぐに首を横に振って、はっきりと否定しなければ。そう思えば思うほど、言葉が喉の奥に魚の小骨みたいに引っかかってうまく発せられない。口内は、砂漠になってしまったみたいにからからだ。
奈々ちゃんは、強張ったわたしの顔を見つめながら、氷柱のように鋭い言葉を振りかざしてきた。
「顔を見れば分かるよ。紬ちゃん、分かりやすいもん。それに、そう思ってるのは多分、今に始まったことじゃないよね。昔から、ずっとでしょ?」
顔から血の気が引いていくのを止められない。彼女の言葉が的確に心臓を撃ち抜いて、呼吸が、脈拍が、凄まじい勢いで乱れていく。それと同時に、沈黙が、これ以上にないぐらいわたしの中の肯定を曝け出す。
「やっぱりね、そうだろうなって思ってたよ。でも、紬ちゃんばっかり責められないや。わたしも、紬ちゃんのことをずっとかわいそうだなぁって思っていたからさ」
耳を疑った。
「当たり前のようにいつだって何でも買ってもらえる紬ちゃんは、何かを本気で欲しいと思ったことは一度もないんじゃないの? ずっと欲しかったものを、誕生日やクリスマスにようやく買ってもらえる特別なドキドキを知らないなんて、かわいそう」
突然、宇宙空間に投げ出されてしまったみたいだ。
「お下がりでもらったヨレヨレの制服よりも、新しく買ってもらった綺麗な制服の方が偉いと思ってない? わたしは、尊敬してるお姉ちゃんと同じ制服を着ることができて光栄だなって思ってるんだけど」
目の前が、ぐにゃりと歪んでいく。
「トランペットを続けられなくなったことにしたって、そう。お母さんの看病も、家事も、大変だけどつまらないことばっかりじゃなくてやりがいもあるんだよ。自分の作った料理を、美味しいって食べてもらえるのって結構嬉しいよ。全部家政婦さんがやってくれる紬ちゃんには、想像もできないだろうけど」
奈々ちゃんは、今まで一度も会ったことがない他人みたいな顔をして言った。
「ねえ、紬ちゃん。わたしは、わたしのことをかわいそうだなんて思ったことは一度もないよ?」
【完】
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