シナスタジア

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 その特異極まる感覚を私が初めて認識したのは、中学二年のときだった。    二泊三日の自然教室で新潟の農家のもとへ行き、農業や歴史について学ぶという内容で、一日目の早朝に学校をバスで出発した私たちは途中サービスエリアを経由しながら五時間以上忌まわしき振動を全身で感じるはめとなった。車内では日頃からうるさい男女が菓子やカードを持ち寄り、いつにも増して騒々しいにも関わらず、同乗する担任教師もこの日ばかりはといっこうに注意する気配を見せない。これが教室であれば私はただ黙々と読書に耽って周囲の喧噪を遮断してしまえばよかったが、今は断続的に続く振動がそれを許してはくれない。遮音性の低いイヤホンから流れるクラシックだけが、腹の底からこみ上げる強烈な不快感を紛らわす薬だった。そうして五時間の間に止まったいくつかのサービスエリアのトイレでもはや我慢できずに人知れず嘔吐を繰り返し、最悪な旅程が幕を開けた。 クラスごと男女別にお世話になる農家の古民家へ送り届けられ、現地に着いてまず行われたのは農家の方との顔合わせを含む挨拶と諸注意の説明。私が属する二年一組の女子がお世話になるのは瀬戸という人の良さそうな老夫婦だった。夫の昭夫さんは大層なおしゃべり好きのようで、対照的に無口な妻のふみさんが私たちのぶんも淹れてくれたお茶を飲みながら、小一時間に渡る他愛のない話をして積極的に親睦を深めてくれた。  時刻は十五時となり、用意してきた学校指定の体操服に着替えた私たちは古民家の裏に広がる田んぼに集まった。農業体験と称して実際に稲の田植えを行うため、昭夫さんに手ほどきを受け、横一列になって腰を屈め、泥に塗れながらひとつひとつ規則的に稲を植えていく。最初は嫌々文句を言っていた女子たちも、男子の目もなく他にやることもなかったためか次第におしゃべりをしながらではあるものの、楽しそうに作業を行っていた。私自身も黙々と作業に没頭しつつ、バスの揺れと淀んだ空気から解放され田舎の澄んだ空気のもと行う肉体労働に悪い気はしなかった。一つ気になる事と言えば、健康な私たちが腰に痛みを感じながら行っている作業の隣で、冗談のつもりか別の田んぼで作業する昭夫さんは農機を使って汗一つかくことなくこちらが馬鹿らしくなるような勢いで田植えを行っていることだろうか。 私はついそちらに気をとられ、田んぼの端に到達している事に気づかず一歩後退させた足が柔らかい泥ではなく堅い地面へと着いたことで体勢を崩し、後頭部から発せられた嫌な音とともに視界は瞬時に暗転した。  そうして数分間意識を失っていたらしい私が目を覚ましたとき、視界に映る世界はそれまでの十四年間見てきたこれからも当たり前にそこに或ると信じてきた光景とは一変し、今は恐るべき奇怪な色彩に溢れていた。視界を占有する(ごく)(さい)(しき)は流動的で生々しく、名状しがたいものだとしか表現のしようもない。私の顔を覗き込むように見下ろすクラスメイトたちの姿を集団として捉えれば狂気じみた赤色であったり、一人また一人と私の視界に映る人影が増えればその度に赤だったものは紫になったり黄色になったり、はたまた集団ではなく個人として見れば白色めいた色であるが、顔を見ると青や白や灰色その他無数の色が密集し混じり合いめまぐるしく変化し、人も空も大地も病的なまでの色で溢れかえっているのだ。私はあまりにも恐ろしくなり、心配して集まってきたクラスメイトや先生の声に返事をすることもできず、抗いようもない恐怖に発狂した。 「目を瞑りなさい」  耳元で年老いた、それでいて慈愛に満ちた声が響く。と同時に視界は皺だらけの手で覆われ、私は途端に強烈な眠気を催し、そのまま眠りの世界に迷い込んだ。  夢の世界は、私が今まで慣れ親しんだ世界そのままの姿を未だ保っていた。空は青く、大地には緑々しい草木が生い茂り、人の体は人種によって違いはあれどおよそ単色で――。ただそこに、まだあの極彩色が侵食していない世界が或ることが、どれほど私にとって救いになったかは筆舌に尽くしがたい。私はその世界が夢であると認識しつつも。失ってしまった正気の世界との最後の繋がりを手放すまいと、必死で夢から覚めないように、その世界があたかも私の生きる真なる世界であると脳に信じ込ませようとした。だが、そうすればそうするほど、意識すればするほどに、その正気の世界は私の元から離れ、意識は薄らいでゆくのを感じる。  私は、またあの極彩色の世界に戻されようとしていた。 「やっと起きたね。おまえさんがそこでぐっすり眠ってる間にもうすっかり夜は更けちまったよ。居間で爺さんがおまえさんの学友さんたちにこの地方に伝わる八岐大蛇の伝承かなんかを話しているけど、まぁおまえさんはそれどころじゃなさそうだがね」  夢から覚めた私は、極彩色ではなく深い暗闇の中で老婆の声を聞く。  恐る恐る顔に触れて見ると、目元を覆うように包帯が何重にも巻かれているようだった。 「慌てた爺さんに呼ばれて畑にあんたを見に行ったときは、一瞬何事かと思ったけど、目を見てすぐにわかったよ。あんた、見えてるんだろう?」 「見えてるって、なにがですか」 「色だよ」  ふみさんははっきりと迷いなくそう断言した。私はあらゆる物事がなんの説明もなしに次々と身に降りかかり、わけもわからず、狂気じみた混迷に陥っていた 「……どうして、どうしてそれがわかるんですか。いったいこれはなんなんですか。私の目は、どうなってしまったんです!」 「あんたには説明しないといけないね。といっても、先にはっきりと伝えておくが、気を強く持って聞いておくれ? ……気の毒だがそれを治す術はない。ただ、これからおまえさんが少しでも長く生きていくために、知らなくちゃいけない事がある。そもそもその感覚が、どうしておまえさんに発症しちまったのかは実を言うと私にもわからないがね、その感覚は代々この村の人間にはついて回るものなんだよ。と言っても全員がなるわけじゃない。極一部の、決まって女だけがなっちまう。きっかけも様々さね。十代のうちに発症したのもいれば八十でなった婆さんもいたねえ。私はそういう人をこの村で何人も見てきた。初めてのときは決まっておまえさんみたいに病的な悲鳴をあげて発狂するもんだから、人を眠らせるのもずいぶん巧くなったもんさ。ああそう、私は村で医者の真似事をやってたんだよ、といっても精神的なものだけだけどね。まあ、私のことはどうでもいいね。ともかく、発狂した女はみんな決まって人とは思えない動きで眼玉をめまぐるしく動かして、何かを見てるんだ。だからおまえさんを見たときに同じだとわかった。何が見えているのか後から聞くと、全員「色」だという。実際に見たことはないから私にはわからないが、この世のものとは思えない冒涜的な「色」だってね。そしてあるときその色の法則に気づいた女の子がいた。「色」は「数」だと言うんだ。はじめはわけがわからなかったが、よくよく聞いてみると彼女はシロツメクサを見ているときに、葉の枚数が三つのものには決まって青色が見えるということに気づいたそうだ。だがそれが四つ葉のものになると決まって黄色なんだそうだ。家に帰って本を三冊と四冊に並べてみたらそれぞれ青色と黄色が見えた事で、彼女は「色」は「数」に応じて変化して見えると確信した。ただ、これは意識の持ちようでもあるらしく、彼女は本一冊のページ数に意識をやればその数に応じた色が見えるんだという。一から十までの基本的な色の対応があって、桁が増えていくたびそれに応じて色が重なり合い、しかし決して混じり合わずに複雑さを増しながら見えていく。試しに何冊か閉じたままの本を見せてページ数を聞いたら、見事瞬時に全部当ててたよ。だが同時にそれを一冊の本と意識すれば、それは一にあたる白として見えるそうだ。その事に気づいてからはずいぶん生活しやすくなったと言っていた。だからおまえさんはその包帯をとったら、まずそれを意識して世界を見なきゃならない。でないと色に飲み込まれてしまうよ」  私はふみさんの話を黙って聞いていた。はじめはこの病の治し方を教えてくれるのかと期待したが、すぐにそうではないとわかって心底落胆した。しかし、そのまま話を聞いているうちにどうしても一つ気になる事があった。 「その彼女は、今どこにいるんですか? 会えないのでしょうか?」 「会わせてやりたかったけどね……彼女はもう死んでるんだ、すまないね」  なんとなく、そんな気はしていた。が、聞かずにはいられなかった。 「……彼女はある一つの数を特別視していた。百、100、一〇〇、とにかく百という数を避けていたんだ。私には説明されてもよくわからなかったんだが、百という数だけは、そこに見えるのは色ではないらしい。いや、「見えない」だったかねえ。そこに或るのは『無』であり『空虚』……彼女は最初は黒だと思ったらしいが、すぐにその認識は間違いだと気づいた。よりわかりやすく表現するなら『穴』とも言っていたよ。百という数がそこにあるとき、その空間にはぽっかりと穴が空く。それは決して黒なんていう色じゃなく、ましてや闇なんかでもない。『無』であり『空虚』。言葉通りに受け取るなら、そこには何も無いはずなのに彼女はしきりにそれをそこに「或る」と表現してたね。そしてどうやら彼女はそれに恐怖しながらも、同時に魅せられているようだった。避けているのに、いざ目の前に百が現れてしまうと目が離せない。抗いがたい奇妙な好奇心に駆られるそうだ。その穴の先『無』の中には何が或るのか……何かが或るという確信が彼女にはあったんだろうね」  そこまで話すとふみさんの立ち上がる気配がして、私の手に一冊の薄いノートのようなものを渡した。 「これは?」 「彼女が死んだあと、彼女の部屋で見つけた手記だよ。さっき私が話した事を意識しながら、包帯をとってごらん。まずはその手記だけ見るようにするといい」  あの世界をまた見るというのは非常に恐ろしく、私にとって勇気のいる事だったが、彼女の遺した手記には興味がそそられたため、意を決して包帯を外す。  彼女の手記は、文字と文字が一定の間隔を離して書かれているとても読みにくいものだったが、文字をひとつひとつ認識しやすくするための工夫なのだろう。  百 を 見 て は な ら な い  見 る た び に そ れ は 近 づ く   私 は こ れ ま で に 九 十 八 回 、 百 を 見 た  あ の 穴 を 九 十 八 回 見 た の だ  そ し て こ れ は は っ き り と し た 実 感 を も っ て 今 の 私 に は わ か る  あ の 穴 を あ の 無 を あ の 空 虚 を  百 回 見 た そ の と き   私 は 人 と し て の 死 を 迎 え る  そ れ が 嫌 な ら 眼 を 瞑 れ ば い い  で も 私 は 知 り た い  あ の 先 に は お よ そ 正 気 の 生 で は 知 り え な い 狂 気 じ み た 神 秘 が 或 る  と う の 昔 、 極 彩 色 の 世 界 に や っ て き た そ の と き に 、 も は や 正 気 な ど 失 っ た 私 に は  そ れ こ そ が 唯 一 の 救 い な の だ それを読んだときの私はまだ彼女が何を言わんとしているのかがわからず、ただ呆然と混迷に突き落とされた。もはや自然教室どころではなくなった私はその後クラスメイトとは別行動となったが、しかし私の強い希望もあって二泊三日のあいだは瀬戸さん夫婦のお世話となった。   あの出来事から数年後、あの地に戻り彼女のことを改めてよく調べてみるとどうやら死亡扱いではなく行方不明扱いだという事がわかった。彼女の名前は瀬戸みちる。瀬戸さん夫婦の実の娘だった。ある日ふみさんがみちるさんが居るはずの自室に食事を持って行くと、彼女の姿は忽然と姿を消していた。部屋にあったのは件の手記と、本棚に並べられた百冊の本。もともとあの感覚を得てからのみちるさんは極力自分の生活スペースから物を排除し、ミニマリストのような生活をおくっていたらしい。それでも熱心に心理学や神経解剖学、電気生理学等の脳科学にまつわる本や、世界中の宗教や神話、果ては出典不明の魔道書に至るまでを読み漁り、おそらくはこの感覚の原因究明のための勉強に明け暮れたようだ。それが百冊の本であり、中には共感覚(シナスタジア)という症例について書かれた本があり、正気の判断であればそれこそが私と彼女が苦しむこの感覚に最も近い症例と解釈であるのは疑いようが無かったが、(事実私が自然教室から帰り、連れて行かれた病院の医師も私の感覚については共感覚の一種だとした。)彼女にも、そして私にも、出典不明の魔道書の類の方があらゆる科学的で学術的な解釈の説明よりも遙かに真に迫っているという狂気じみた確信があったのは間違いない。彼女の蔵書の中でもとりわけ興味を引きつけられたのは狂人が書いたとしか思えない出典も表題も不明の冒涜的な写本の断片だった。  その断片に記された深淵の知識については口に出すのも憚られるため仄めかす程度にとどめるが、遙か昔、古の時代に遠い異国の地で生きたと思われるその本の作者はあの『無』であり『空虚』を知っているに違いなかった。彼もまた彼女と同じようにそれを受け入れこの世を去ったのだとすれば、私もまた同じ選択をするのが当然の帰結のように思える。事実、私はあの『無』が気になって仕方ないのだ。    私が中学二年のときこの感覚に芽生えてからもう十年以上が経った。  あの手記を読んでから、私は百を忌避して生きてきた。  それでも、目を瞑って生きることはできなかった。  これまでに九十九回、空虚なる穴を見た。  あと一度見てしまえば、私も彼女と同じ道を辿るだろう。  しかしこれは運命だったのだ。あのとき小さな不注意で転んでいなくとも、私の家系図を辿ればあの地方に辿り着くという奇妙な合致が、どうあれ避けようのない呪われた運命を感じさせる。
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