第百二十九節 真白の蝙蝠

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第百二十九節 真白の蝙蝠

 グローブ大森林は中央大陸の真中辺りから西側へ、フィネロ王国とニルヘール神聖国との国境に沿うようにして広がる奥深い森だ。  北方を国領とするフィネロ王国側へ大きく食い込んだ形で茂り、森の南側は足場が悪く傾斜が強くなっているため、西南のニルヘール神聖国側からは緑の色濃い険しい山に見えるらしい。山道(さんどう)と呼べる道も無く、馬で立ち入ることはおろか人の足でも登るのは困難である。  つまり――、緩衝地帯であるグローブ大森林に入り込むためには、フィネロ王国領を通らなければならない。  フィネロ王国領にある街の人々から耳に入れた噂話では、今回のニルヘール神聖国の進軍は、先立ってフィネロ王国に一報されていたとのこと。ニルヘール神聖国から『自然遺産とされるグローブ大森林の現状調査と保安維持』を銘討った、国境越えとフィネロ王国領を抜ける公許の伺いが成されていた。  だが、フィネロ王国の聡明なる王――、“白百合の女王”の名を戴く年若き女王は、自らの国土にニルヘール神聖国が足を踏み入れることを(よし)としなかった。  フィネロ王国の諜報員が報告した、()()調()()()()()()()の名目で構成された徴兵編成や備蓄状況は、()()が目的だと語るには無理のある規模だった。  軽鎧(けいがい)重鎧(じゅうがい)で身を固めた兵たち、馬鎧を身に(まと)った征馬、多種多様に数多い武器や膨大な兵糧。行路に設営される兵站(へいたん)の様子から、侵攻の(くわだ)てが明るみになったのである。  そして、ニルヘール神聖国はあろうことかフィネロ王国の正式な返答を待たず、その軍勢を出立させた。  それ故、フィネロ王国はニルヘール神聖国の行いを侵略行為と見なし、自国の軍を動かすに至ったそうだ。  これが小競り合い程度で落ち着くのならまだ良い。最悪の場合はフィネロ王国と同盟協定を結んでいる――、ニルヘール神聖国と長きに渡って睨み合いを続けてきたエレン王国までもが時期幸いと軍を動かし、大きな争いに発展する可能性があった。  万が一、さような事態に陥れば、エレン王国に居るハルも戦争に巻き込まれる。  そうしたら、自分は何をするべきか。エレン王国側に付いて戦場に立つべきか、それとも争い事からハルを逃がすのが正しい判断になるのか――。  自身が成すべき最適な選択肢に遅疑逡巡と思い馳せ、ビアンカは独りで森を進む。  日が落ちて、辺りはすっかりと宵の暗さを呈している。月明りが心許なく照らす林道には(ふくろう)や虫の声が響き、遠くでは狼のものだと思われる鳴き声が尾を引いた。  歩みを進める内に緑の合間に潜む鳥を驚かせたのか、甲高い鳴き声と枝葉を羽(たた)く音にビアンカまでも驚いて足を止めてしまう。 「……随分、入り込んだ感じかしら」  吃驚に揺らいだ心を落ち着かせようと深く息を吐き出し、周囲を見回して独り言ちる。  翡翠色の瞳が映し出すのは、淡い月光を浴びる立ち並んだ木々。目に見える場所に生物の姿は見えないが、動物と思しき気配は感じる。  幸いにも魔物の類はいないようだった。いや、もしかすると魔物も棲みついているのだが、人間を襲う必要のない生活を営んでいるのかも知れない。  単身で深く暗い夜の森を歩いているが、敵意や殺気じみたものは感じない。身の危険は無さそうだ。  だけれども、誰かに視られているような、ざわざわとした感覚を拭えずにいた。  ここは、グローブ大森林に少し入り込んだ場所。森の北側には“ユグドの大樹”が(そび)え、大樹の周辺は自然遺産に指定されているために、保護機関や調査関係者以外の立ち入りは固く禁じられている。  そのような神聖かつ厳重なる保護の取り決めが成された地の近くに、好きこのんで足を踏み入れる人間も少ないはず。極稀に自分のように森を突き抜けて東西を渡るものもいるだろうが、森の動物たちは基本的に人間への警戒心が薄い印象を受けた。  初めの内は好奇心旺盛な森の生き物から向けられた、稀有の視線かとも思った。だが、ふと気付いた視線を意識して注意を払っていれば――、歩みを進めるビアンカから、一定の距離を取って追いかけてくる。  歩けども歩けどもついて来る、正体の解せぬ(ぬし)に対して湧き上がるのは嫌悪の情悪感情。  付かず離れずの間隔を保って森を飛び交うのは――、蝙蝠(こうもり)の群れだけ。  夜闇の中で蝙蝠(こうもり)が飛び回るのは、さして不自然さも物珍しさも無い。  しかしながら――、()()される理由が、ビアンカには思い当たらなかった。  理由も分からずに追い回され、見つめられるのは気分が良いものでは無い。寧ろ、非常に不愉快だ。  ビアンカは嘆息(たんそく)すると(おもむろ)に膝を屈め、足元に転がっている手ごろな大きさの石を拾い上げていた。膝と背筋を伸ばして姿勢を正し、石の形状を確認しているのか(てのひら)で器用に転がして(もてあそ)ぶ。  と思えば――、不図に眼光鋭く(きびす)を返し、腕を振るって石を力いっぱいに投げ放った。  勢いよく投擲された石は数匹で群れを成していた蝙蝠(こうもり)――、その中央で羽ばたく真っ白な個体を捉えていた。  真白の蝙蝠(こうもり)は「キキッ」と高い声を上げ、慌てた様子で翼を羽ばたいて身を捩る。すると、ビアンカが投げつけた石は白い蝙蝠(こうもり)を掠め、その後ろを飛んでいた他の蝙蝠(こうもり)に打ち当たって地に落とす。  外したか――、と内心で忌々しさと不満を吐露し、ビアンカは(くだん)蝙蝠(こうもり)の羽(たた)き音を目線で追っていく。  月夜に映える真白の蝙蝠(こうもり)は群れから外れて羽ばたき、中空で弧を描いた後に張り出した木の枝に頭を逆さまに止まった。  黒と灰色の濃淡に覆われた森の中で異彩を放つ白い毛並みに、ジッとビアンカを凝視する深紅の目。身に絡みつくような深く紅い視線に、自身を監視していた存在(もの)()()だとビアンカは確信した。 「――私に、何か用かしら?」  冷ややかな翡翠の(まなこ)を差し向け、ビアンカは凄みを帯びた声で問う。蝙蝠(こうもり)が返弁をするのかと思われたが――、その蝙蝠(こうもり)はつぶらな深紅の目を細め、「キュキュッ」と高音の鳴き声を溢して羽を広げた。そうした仕草はまるで笑っているようだと、ビアンカに感じさせる。  幾度か高調子の鳴き声を上げた白い蝙蝠(こうもり)は羽ばたき、再び枝から身を離すとビアンカの眼界でくるりくるりと旋回していく。  怪訝に翡翠色の瞳が見守る中で、真っ白く小さな身体はやにわに膨れ、一回りも二回りも大きくなって複雑に変態していき――、次第にヒトの姿を形作った。  トンッ――、と爪先で地面を叩く音を鳴らすと共に地に降り立ったのは、目を見張るほどに麗しく妖艶な女性。  肩辺りの長さで整えられた白銀髪に、愉快げに細められた深紅の瞳。白磁の肌に纏うのは白い衣服――、と。蝙蝠(こうもり)の姿と変わらず、真っ白な井出達である。  歳の頃は二十代前半ほどだが。蝙蝠(こうもり)がヒトの姿へ化けるなど、普通の人間では在り得ないため、実際の年齢は分からない。  何者だろうか――。ビアンカは警戒を露わに睨みつけるが、白銀髪の女性はにやりと薄い唇を歪ませた。 「ほほ。()(おそ)れとは、かくも(ごと)き。まさか不意打ちを受けるとは、思わなんだ。幼気(いたいけ)でカワユイ蝙蝠(こうもり)に容赦なく石を投げつけるなんぞ、とんだ猫被りよ」  なんとも特徴的な喋り口だと、第一に思う。そして、『怖い』を意味する言葉を口にしながら、女性の声の音は畏怖を含んでいない。それどころか、愉楽を含有している。  カラカラと大仰に笑う女性を訝しげに翡翠色の瞳は見据え続けるが、()()()()に気付き、ビアンカは奇異から眉間を寄せてしまう。 「……牙?」  つい思ったことがビアンカの口から漏れ出す。呟きを耳にした白銀髪の女性は口角を上げ、ニッと歯を晒す笑顔を見せた。  歯並(はなみ)の良さを見せつける笑み。その色付きの良い唇の奥を注視すれば、歯並びに感心する前に、長く鋭い四本の犬歯に目が行った。それによって、ビアンカの面持ちが増々顰められていく。 「あなた、魔族ね。しかも、吸血鬼……」  オヴェリア群島連邦共和国の国立大書庫に保管される文献で得た知識によれば、魔族も一括りに『魔族』といえど、種族内で細かな種分けがされているそうだ。  その中で“吸血鬼”と呼称される一族は、魔族の頂点に立つほどの強い魔力を有すると記されていた。  吸血鬼一族は色素の薄い者が多く、太陽の光を苦手とし、夜闇に紛れて行動をする。そして最大の特徴は長く鋭い歯牙を有すること。その牙を用いてヒトや動物を襲って血を糧に生き永らえ――、特に人間の生娘の血を好む傾向があるという。 「如何(いか)にも。わらわは誇り高き吸血鬼の一族。(うやま)うと良いぞ」  ビアンカの尋ねに女性は腕を組み、身を僅かに反らして得意げに返弁する。  そうした傲岸不遜(ごうがんふそん)な相手の態度に、ビアンカの翡翠色の瞳は一瞬だけ呆気に取られて瞬くも、不意と白眼視になり一笑に鼻を鳴らした。 「血を寄こせとか言うなら、ごめんなさい。他を当たってちょうだい」  付き合っていられない。さような心の声を顕著に顔付きに表し、ビアンカは(きびす)を返してしまう。  思いもかけないビアンカのつれない対応で、白銀髪の女性は咄嗟に腕を伸ばして黒い外套(がいとう)のフードを掴んでいた。 「待てまて。おんし、気が短い上に早合点しすぎるのう」 「早合点もなにも、()()()()()が目的でしょう。お生憎様だけれど、私の血じゃあ、あなたのお口には合わないと思うわ」  外套(がいとう)のフードを引かれたことでビアンカは足を止め、煩わしさを目いっぱいに籠めた冷めた視線を再び女性に向ける。 「わらわは『血を寄こせ』など一言も言うておらんではないか。――『旅は道連れ世は情け』と昔っから言うじゃろう。女子(おなご)同士、ちょいとばかり打ち解けてみぬかと思うてのう」  いったい何なんだと。不服を口以上に大いに語る翡翠色の眼差しに、白銀髪の女性は意に介した様子も見せずに悪びれなく口端を歪ませていた。
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