プロローグ

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プロローグ

 硝子提灯(ていとう)が照らす仄暗い部屋に、筆を滑らせる掠れた音が響く。  紙の匂い、微かな黴臭さ。多くの本と棚が存在する特有の香りが漂う一室の中央に置かれる大机で、一人の青年が羊皮紙(ようひし)に羽筆を滑らせて文字を書き綴る。  時折、灰色の長い髪が垂れることで煩わしげに掻き上げ、赤色の瞳の疲れを癒すように僅かに伏す。  青年が手掛けているのは、彼が永い時をかけて記した、歴史の流れをしたためた手記だった。  修正を加えながら書き進めているのは、かつて東の大陸に存在した“リベリア公国”に関わること。()の国は突として、歴史上から姿を消した経緯(いきさつ)を持つ。  リベリア公国が何故(なにゆえ)に滅びるに至ったのかは、常人には計り知れない事象とされ、その本当の理由は人知れぬままで早百余年の月日が流れる――。  しかし、その真相を知るものが、ほんの一握りだけ存在した。  青年はリベリア公国での真実を見直し、その後の調査で明らかになった事柄を注釈に加筆していく。  猶々(なおなお)と筆は進んでいくが、はたと青年の手が止まった。 「これは。なんとも偶然の時期、ですね」  不意と悦楽に口端を歪め、垂れていた(こうべ)を上げる。  ゆるりと首を動かし、壁際の窓へ赤色の瞳を向ければ――、夜明けを告げる光の差し込みが目についた。それと共に青年のかけていた片眼鏡(モノクル)が、朝陽を反射させて煌めく。 「――漸く彼女の“物語”が、再び動き出しましたか……」  誰に言うでも無く独り言ちる。独り言を漏らした唇が口角を吊り上げ、さも楽しげな様を彩っていた。 「随分と永い間、飛ぶことを躊躇(ためら)っていたようですが――。暫くぶりに“()()()()()”が綴れますね。再び筆を取れることを喜ばしく思いますよ」  くつくつとした笑いで喉の奥を鳴らし独り言を止めぬまま、大机の端で平積みにされる本の山から一冊の本を抜き出した。  重厚な装丁をされた題名の無い本。それは青年が書き綴る、ある人物の“物語”がしたためられる手記だった。翡翠色に塗られた真鍮製の栞が挟まるページを開くと、紙を捲る音が鳴る。  開かれた白いページは、その“物語”を書き綴るのを頓挫(とんざ)したことを窺わせた。だけれども、それも致し方ないことだと青年は嘆息(たんそく)する。  文字の書かれる最後のページに、赤色の瞳が流れる。そこにはある少女の、これまでの軌跡が書かれていた。 ――『太陽暦五千七百年。  少女は“死を司る呪い”――、“喰神(くいがみ)の烙印”を当時の“始祖”であった少年より継承した。  謀反の矢に射抜かれて死の淵に立たされた少女を救うためと、“始祖”の少年は自らの命を投げうる形を取った。それによって、少女は死を知らぬ存在に成り果てた。  そして、少女は恋仲であった少年の(あだ)討ちとして、その呪いの力を以てリベリア公国に制裁を加え、瞬刻で滅ぼすに至った。  祖国を滅ぼした少女は“喰神(くいがみ)の烙印”を伝承する隠れ里へ赴き、その地で呪いに魂を喰われた少年を救い出すため、禁忌とされている“魂の解放の儀”を執り行う。  無事に少年の魂を“喰神(くいがみ)の烙印”の呪いから解放した少女は、今生の別れの際に少年と一つの約束を交わした。少女と少年は――、その少年の生まれ変わりと再び巡り逢うという、確約の無い誓いを結んだのだ。  その後に少女は、永いながい旅に出ることとなる。それは、()わば(つがい)の鳥を亡くし目的を失った、“片翼の鳥”のような旅路となるのだった。  “片翼の鳥”となった少女は、その旅路の果てに何を見るのか』―― 「さて。――では、“世界と物語を紡ぐ者(ストーリーテラー)”として、ここに一つ。また“物語”の続きをしたためるとしましょうか」  自らの手記の最後に書かれていた文を読み返し、羽筆ではなく万年筆を手に取った。そうして、新たな文章を書き加えていく。   “物語”を滑らかに文字として躍らせる青年は鼻歌混じりに――、至極機嫌の良い様相を醸し出す。 ――『太陽暦五千八百十七年。  永らく行方を潜めてくらませていた少女の“物語”が、再び動きだした。世界を見て回り、己の目的を果たそうと飛び始めた少女――。  果たして少女は世界を作り変える(いしずえ)となるのか、人の(とが)を制するものとなるのか。  これは少女の“出会いと別れの物語”となり、少女の目にしたもの全てが、この後の世界の行く末を左右することになるだろう』――  そこまで文字を書くと、万年筆の動きが止まった。 「この後に舞台に上がった役者たちは、どのような“物語”で楽しませてくれるのでしょうか。――ねえ、ビアンカさん」  赤色の瞳が細められて天井を見据え、静かに――、“物語”の主人公である少女の名が呟き零されるのだった。    ◇◇◇  春が訪れたと(いえど)も、まだ外気はひやりと身に刺さる。  木々の合間から垣間見える地平線。その彼方から朝陽が射し込み、辺りは早朝の清々しい空気を呈していた。  風が吹くに従って葉擦れ音が鳴り、葉と葉の隙間から見える朝陽が眩い。  陽光を煌めかせる翡翠色の瞳。爽やかに吹き込む風に一つに括った亜麻色の長い髪と、身に(まと)った黒い外套(がいとう)をなびかせるのは、まだ十五歳ほどの見目をした少女だった。その少女は足を止め、朝陽に目を向けている。 (――今、誰かに名前を呼ばれた気がする……)  亜麻色の髪に翡翠色の瞳をした少女――、ビアンカは、不穏な意思を身に感じて眉を顰めた。  ビアンカの左手――、指先だけが露出した革の手袋に覆われる左手の甲に刻まれた“喰神(くいがみ)の烙印”が、ちくりとした痛みを伴って疼いた。  “呪いの烙印”と呼ばれ、人々に忌み嫌われて畏怖(いふ)される“呪い”を受けた証。それがまるで、ビアンカを嘲笑うかのように、痛みを以てして蠢く。 「大抵、こういう時は――。ろくでもないことが起こるのよね」  ビアンカは、どこか辟易(へきえき)とした声音で呟く。  溜息混じりの悪態ともつかない言葉を口にしたかと思えば、自身の左手を眼前に掲げ上げた。  左手を掲げたビアンカは口を閉ざしたまま、革の手袋に覆われる左手の甲を見据える。翡翠色の眼差しは、冷たさと強い覇気を宿す。 「――()()()主人(あるじ)は、私。()()()主人(あるじ)である私に、大人しく従っていれば良い……」  自身の左手の甲に宿る存在に言い聞かせるよう、威圧的な言葉が口をついた。 「余計なことは、一切しないで――」  そう吐き捨てると、ビアンカの左手の甲で(うごめ)く気配を窺わせていた“喰神(くいがみ)の烙印”は、鳴りを潜める。  それを認めたビアンカは掲げていた左手を降ろし、再び足を動かして進み始めた。  ビアンカが歩むのは――、ある王国に向かうための街道だった。  土が剥き出しの整備されていない街道は、馬車が多く行き交うことを物語るように、車輪で掘られた(わだち)が深く残る。  だが時期に――、その街道は石畳へと変わるだろう。目的地である王国までは、地図上ではそう遠いものではなかった。  何故、その王国に足を運ぼうと思ったのかは、ビアンカにも解せなかった。しかし、そこへ行かねばならない。直感とも本能ともつかない何かが、呼び掛けていた。  これから訪れる王国で、なにが待っているのかは分からない。  だがしかし。ビアンカを取り巻く“(えにし)の糸”と“運命の道筋”が、“世界と物語を紡ぐ者(ストーリーテラー)”が手記として残す“物語”となり――、ここから始まるのだった。
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