下弦の月、出ずる処

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下弦の月、出ずる処

「すみません! メールで今送りました!」 「……あー、来ました来ました。良かったです、今回こそ休載かと心配しました」 この頃は、半月に1度の雑誌連載のお仕事も頂けるようになった。 担当の石井さんから電話で催促。この方はメールだけでなく電話でフォローしてくれるので、すごく安心して仕事ができる。 「……ざっくり確認できました。どうもありがとうございます。 さて別件。実はね、木室さん。あなたと直接連絡取りたいって言う人がいて。 1回は悪いけどこっちの判断で門前払いしちゃったんだけどさ。いや正確には3回かな。 やっぱ2回3回4回目となると木室さんの耳に入れない訳にもいかないから」 「そうですか」 「杉本瑛作って人。まさか知り合いだった?」 「……いえ」 「シツコイのが気になって。例え純粋なファンだとしても相手、男だろ? 連絡先知られて自宅まで追っかけられるとマズイし、宅配とかでもドア開ける時、気をつけといた方がいいかもな」 「まあ、そんな年でもないですけど。でもそうですね」 「どう? 田舎暮らし」 「楽しいですよ」 「そろそろネタに困ってんじゃない? たまにはこっちで打ち合わせしようよ。流行りの店でご馳走するよ。いい刺激になるだろ?」 「ネタは当分大丈夫かと」 「ハハハ…… では今回も責任校了させていただきます。次回の入稿は週明け月曜日の朝10時厳守、でくれぐれもよろしくお願いいたします。余裕頂けるとこちらも大変有り難いので」 「いつもギリギリですみません。こちらこそよろしくお願いします」 毎回時間に流されてる。申し訳ないな……。 担当の石井さんは、電話でもオンオフが分かりやすい。分かりやすいように喋ってくれてるのだと思う。 前からやんわり誘われているのは気づいている。 悪い人じゃないし、別に嫌いでもない。 でも石井さんに求めるものは恋愛か仕事か自問すれば、あたしは躊躇なく仕事と答える、そんな感じ。 瑛作さん……。 知らない人にしちゃった。 でもきっとそれがいい。 世間に本名を晒す仕事とは言え、まさか料理の中でもマイナーなマクロビオティックのカテゴリーで見つけて貰えるなんて。 しかもあれからどれほど時間が経ったというのか。 お世辞にも若くない。自分の年なんて聞かれるのも億劫。決まってその年で独身? の目で見られるから、その度に滅入るのだ。 別に年月を重ねることに焦る訳ではない。 あたしにもいろいろあって、 瑛作さんもいろいろあっただろう。 それでも瑛作さんはあたしのことを 忘れてくれてなかったのか…… 「石井さん」 「何? デートする気になった?」 「違います。杉本さんの連絡先。教えて頂けますか?」 「知らない男の連絡先を?」 オフモードの石井さんは少し意地悪だ。 「ごめんなさい。昔の知り合いなんです」 「連絡先、どこにやっちゃったかなあ。 ごめん、今度でもいい?」 「やっぱりいいです。お手間取らせてすみませんでした」 電話を切り、この後に及んで執着を見せた自分にため息を吐いた。 □ あたしはその足で「キッチン藤野」に向かった。 自然食品を扱う小さなお店で、料理教室やワークショップを開かせていただき、細々と生活している。 田舎の割には都心部から電車でのアクセスがそう悪くはないので、生徒さんもそこそこ足を運んでくれるようになった。 おかげさまで掛け持ちのバイトの数を減らせて、その分精神的な余裕が増えた。 料理本を出版する企画も進んでいる。ちょっと前に一度だけ、ご縁でテレビ番組にも出演してしまった。ただ、あれはやたら緊張するからもういいや。 今日はお醤油を買いに。 きちんとした伝統製法の調味料は、少々下ごしらえに手抜きをしても美味しい味に仕上げてくれるのだ。 「こんにちはー」 「ちょうどよかった。京子ちゃんに、お客さん」 その後ろ姿で藤野さんが言い終わる前にすぐ分かった。 後ろ姿の人もあたしの声で気づいてくれたと思う。 「京ちゃん」 「瑛作さん……」 だって瑛作さんは、もうカップを置き雑誌を閉じていた。 飲んでいたのは自家焙煎の有機栽培コーヒーかな。 読んでいたのは里山風景と旬のレシピをエッセイにして連載させて頂いている雑誌だ。 あたしの体内に埋もれた時計はぎこちなく時を刻み始めた。 ある日突然消えてしまったあたしを、瑛作さんは許してくれるのだろうか。 □ 瑛作さんに促され、店の外を歩いた。 冬、秋、夏、春、 冬、秋、夏、春、 冬、秋、夏、春、…… 閑かな山あいの集落。用水路に沿った細い道路は人の往来が全くない。 だって子どもたちは学校へ 大人たちは街へ対価を得る仕事に もっと大人の人たちは何世代も前から手入れされてきた畑へ それぞれの生活で忙しい時間だもの。 「つかまえた」 時計が逆さに回ったみたいだ。 子どもが鬼ごっこで捕まえた時みたいに無邪気に、でも確かに大人の男の人の骨格でキュッと抱きしめて、なのにあどけない子どもがしがみつくように離れなかった。 「京ちゃん、桜の花びらみたいにするりと摺り抜けて行くもんだから」 この時間帯だと誰も見る人がいない、見てるとしたら、そこの月待ち二十三夜塔に祀られる菩薩さまくらいだろう。 月待ちというのはお供えものをして月の出を待ち月を祀る風習。現代ではお月見と言えば十五夜の満月しか聞かないけれど。 だったら寧ろ菩薩さまに見ていてほしい。あたしが嘘をつかず真っ直ぐに向き合うところを。 「幸せがこわかったんです」 「どうして?」 「…いろいろ考えてしまうから」 一言では、とてもまとめられない。 自分という人間が、幸せになっていい なんて価値観が、 どこが、どうしても、どうあっても、 紡げない理由がここかしこに散らばって 「今はどう? 幸せ?」 「落ち着いてます」 「僕は、寂しかったよ。ずっと」 あたしの背中に回っている懐かしい大きな手に、自分の手を伸ばそうと追いかける。 身体がかたくなったな……なかなか届かない…… それでも背中の瑛作さんの見えない指を探り続ける。 瑛作さんはもぞもぞ動くあたしの指に自分の指を絡めてくれた。 2人の顔の間にしっかりと繋がったまま現れた指は合わせると20本だ。いっぱい。 考えてもなかった数字が揃って不思議な感動を覚えた。 瑛作さんは前と何も変わらない微笑みであたしを慈しむように見つめてくれた。 体内の時計は加速する。 冬、秋、夏、春、 冬、秋、夏、春、 時を戻せばいい 針を逆さにぐるぐる回して そしてそのまま止めてしまえばいい 冬、秋、夏、春、 冬、秋、夏、春、 巻き戻せ 巻き戻せ 己の刻みを壊してしまえ 煩くまくし立てる 口から飛び出してきそうなほどに 冬、秋、夏、春.冬.秋.夏春冬秋夏春 苦しい 喉を、胸を、引き千切りたい 苦しい、ああ 冬…っ!! ーーーーーーーーーーー……… ここがあたしのデッドライン 超えてははいけない。 古い記憶に甘えて、20本の中に紛れた1本の指にいつまでも気づかないフリをするのは、いけないと思った。 「ご結婚、されたんですね。……よかった。幸せになってくれて」 あたしの不甲斐なさはこのギリギリのラインを踏み越えて、瑛作さんの時間と紐づけてはいけない。 月は東から昇り西へと沈む。 太古の昔から逆さに回ったことは一度もなく まして、大切な人に負い目を感じさせるなんて、女の恥だ。 それだけは、何にも譲れない。 なんとしてもあたしは誠意を持って、瑛作さんの幸せを守らなくてはならなかった。 「これは……違うんだ、その」 「いえ、よかったんです。本当に」 あたしはするりと指を放した。 瑛作さんの選択は正しかった。 契りを意味する薬指のリングに、あたしの入る隙を窺ってはいけない。 それに瑛作さんと瑛作さんのお相手の幸せを脅かす権利がまかり通るならば、 あたしが実母を蔑む理由も許されないではないか。 「勿体無いほどの幸せは、瑛作さんにたくさん頂いたから。今日だって、そう」 あたしは本気でそう思っている。 お互い時を巻き戻すことはできない。 だから、ここで指輪を外そうとするのを黙って見過ごしてはいけないのだ。 「そんなつもりは! 無いんです。ほんとうに。瑛作さん、感傷に、流されないでください! 駄目です、やめて! あたしは、あたしは、そんなことさせたくない!」 瑛作さんは遂に指輪を外してしまった。 あたしの抗議は伝わらなかった。 そうだ。この人は自分が一度こうと決めたら簡単に引き下がらない頑固モノで、垣根を易々と乗り越えてはあたしの懐へ入り込みそして振り回し、後になってやり過ぎたと反省する。 いつもそう。今日もそう。 でもこれじゃあ大きな大きな後悔を、させてしまうーー… 「京ちゃん、泣かないで。 これは僕と京ちゃんのリング」 そんな嘘ついたら、言いつけてやるから。 「京ちゃんを見つけるまで身につけてたおまじないだよ。魔除け。実際、独身女性が近寄らなくなった」 そこの菩薩さまに、言いつけてやるんだから。 「効果抜群。左手貸して?」 ゆるゆるのぶかぶか…… 当たり前じゃないの。手の大きさも指の大きさも全然違うのに。 あはは……これじゃあ落っこちるか、と瑛作さんは二十三夜塔の小さな石碑に惜しげも無くお供えして手を合わせた。 騒いでいた体内の時計は、元の居場所に収まるべく帰っていき、やがて埋もれた。 「京ちゃんが好きそうな里山だね。二十三夜講の跡がここにもひっそり残ってたんだなー。…… 二十三夜の月待ち、なんて雅な風習に聞こえるけど。 ぶっちゃけ下弦の月を拝むなんて口実。 みんな夜中まで賑やかにドンチャン騒いでたのさ。 この国の神さまは、思うほどストイックじゃないって」 けろっと言ってのける瑛作さんは、まだ目を閉じて手を合わせている。 「僕はね。京ちゃんが好きだよ。京ちゃんは? 今他に好きな人がいないのなら、僕にしておけば? ……もし好きな人が他にいるのなら」 「なら?」 瑛作さんは振り向き、 「どうしようか。答え聞くの怖いから先にキスを」 もう一度捕まえにきた。でも無邪気でいられるほどあたしは 「もう逃げないで」 「でも、あたしは」 あなたの知らない間にも、あたしは 「今は言わないで。僕の本気は本物だよ? ゆっくり1つずつ解決できる」 「あたし、もう若くないです」 「そう? まだ確かめてないから、なんとも」 あはは……なんてまたからかわれて、今度はあたしの方が子どもがするようなふくれっ面をしたら、負けずに子どもに戻っている人がいる。 「京ちゃん、腹へったー。ぺこぺこ」 「あ、お醤油買いに来たんでした」 条件反射だ。空腹な人を放っておけないあたしは、昔の瑛作さんのハラヘッターをきっかけに料理を丁寧に作るようになった。 「うちに来ませんか? あるもので良ければ何か作ります」 「直帰にしといてよかったー」 「まさか仕事中だったんですか? じゃあ、ダメダメ。戻らなきゃ」 「直帰だって言ったろ。もう今週分の営業ちゃんと済ませたから」 そんなの嘘か本当か分からない。 けど、瑛作さんが良いと言うのならもういいや。 タテマエを全部、草むらに潜む菩薩さまの前に置いていく。 この瞬間に払い落とせる限りの全部。 □ お昼も晩も食事を一緒に頂いた。 お酒もちょっとだけ。 あたしは悲しい話の断片をぽつりぽつりと語り始めた。 今にもお椀から溢れそうだったそれは思い返すほどに辛いことばかりで、慰めて貰ったとしても天地は返らない。 瑛作さんはいいとも悪いとも誰のことも責めずただ隣で聞いてくれた。 それが有り難かった。 縁側でお月見の真似ごとをすることにした。 縄文の時代には既に信仰されていたという月は、季節、天候、農作物など人の暮らしのみならず、万物の生命それ自体の誕生、成長、病、死そして再生までの時を司り、刻んできた。 太古から年月日が流れ流れてあたしはあたしの生を生きる中で、親に見捨てられ恋人から逃げ出し子を奪われ、また糧を得て信頼を結び今は大切な人が隣に座っている。 月が欠けてまた満ちると同じく時がまた巡る。 夜半に昇り未明に南中する二十三夜の下弦の月は、その模様が菩薩さまに見えるという。 2人で見上げた今宵の月は、まさに下弦の月だった。 東の山際が白む頃 愁眉を開いて、あたしは 人肌の温もりにくるまれている
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