渚町

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渚町

 碧天に浮かぶ白い雲、海鳥の鳴く声、光る波しぶき。  東洋のナポリとも呼ばれるここ熱海のうつくしき渚は、かつて新婚旅行のメッカとしてその名を馳せていた。  東京からほど近く、旅情ありつつそこそこに都会的。そして何より、常春の温暖な気候が、新婚カップルの浮かれた周波数とばっちりマッチしたのだろう。  晴れた週末、特急列車に揺られ、カラフルな男女の二人連れがぱらぱらと熱海の駅に降りてくる。紳士たちは、すました白い手袋の淑女たちの手を取って……。  定番のニュールックに、ボックス型の小ぶりな旅行鞄。  この頃の僕らは、服の色で大半女性の性格を見抜くことができた。帽子とコートが同じ柄の新婦は、尚分かりやすい。記号的に、ポップに、彼女たちはステータスの一つとしてお洒落を楽しんでいた。  流行も軽やかに移り変わった。リゾートスタイルならストライプ、小鳥のようなバレリーナシューズ、夏はポルカドットのサマードレス。紳士たちのネクタイの柄だって、今よりずっと派手だった。  海辺には、若い二人を祝福する紙吹雪のような鴎たち、潮風に乗って流れてくるのは甘い愛の囁き。  嗚呼……素晴らしきハネムーン!  海岸沿いのリゾートホテルから漏れる明かりは、夜ごと連なるシャンデリアのように海面に反射し、月光と絡まって蜜色に揺らめいた。  寄せては返す波の音、繰り返される月の満ち欠け、同じように夫婦の幸せも、永劫のものとなるだろう。  僕も仲間たちも、自分の存在するこの場所は幸せ絶頂の二人が選んだ「楽園」なのだ……と心から確信し、そして誇りに思っていた。  時代は移ろい、熱海温泉郷も観光地として様々な変化を遂げて来た。  巨大な観覧車が建ったり、怪獣に城を破壊されたりしつつも、なんやかんやゆるゆると湯けむりを漂わせてきたものだ。  だが……いつからだろうか。色とりどりのカップルたちが、街からめっきり姿を消してしまったのは……。  やがて世にも恐ろしい大型シャボン玉爆発事件が起こり、熱海はド閑散のド不景気を迎えることになる。一時期は異世界かと見紛うほど衰退し、あんまりな光景に白目を剥いていた僕らであった。  ……が、いつの間にかまたふわふわ息を吹き返し、様々な時代の名残を色濃く残した唯一無二の景観を抱え、街は今日に至る。  仲間たちは皆、いつの時代の熱海も好きなんだ、と言う。僕だってそうだ。  ただ何故か僕は、ハネムーンの聖地だったあの頃の景色が忘れられない。  それはきっと僕の町の観光名所に「恋人の聖地」があるからなのだろう。  ムード満点な夜のテラスを、地中海さながらの白亜のデッキを、また彼らに手を取り合って散歩して欲しい。海を臨むベンチに腰かけて、肩を寄せ合っていて欲しい。  愛を司どるモニュメントの下で、永遠を誓い合って欲しいのだ。  
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