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「違う。変態タキシードだ」
「なんだい君は、失敬だなぁ」
釣竿を肩に担いだアロハシャツの青年は、僕を見るなりまるで嫌いな食べ物でも出された子どものような顔をして口をひん曲げた。
彼は、和田浜南町の泉都幻象である。渚町とは港を囲んで隣り合う地区だ。
バイトの帰り道に、たまたまムーンテラスで黄昏れる僕を見かけたようである。
「これから釣りかい」
「おう」
彼の趣味は釣りである。というか……それ以外の個性がとんと浮かばない、と言った方が正しいか。
のらりくらりとしたオヤジだらけの社員旅行の土産話のようなうだつのあがらない寝ぼけ眼。よくいえば郷愁、悪く言えば殺風景というような、特に感想の浮かばない人相。フツメン中のフツメン。流行周回遅れ、頭にのせたサングラスが見るも無残な救いようのない南国かぶれのアロハファッション。わざわざ下まで見なくとも、どうせ穴あきサンダルを履いている。
「釣りばっかりしてないで、たまには僕に付き合ってくれんかなぁ?」
切ないファッションチェックに目をしぱしぱさせている僕を、彼はじろりと一睨みした。
「付き合うって……」
そして釣竿をトントン肩に当てながら、そのまま通り過ぎていってしまう。
「オメーの場合それだけじゃ済まねーだろーが」
このまま海釣り施設の方へ向かうのだろう。
海を挟んだ堤防には、晴天の下、オレンジ色のライフジャケットを着た釣り人たちが点々と並んで狩場を陣取っている。
釣り堀の方面から臨む熱海の街並みは絶景なのだが、彼らはずっと水面とにらめっこしているため、あまり関係ないらしい。ひとたび釣り糸を垂らすと、そこからは永遠のごとく時間が停止する。
何度か側で見学をした事があるが、あれほど不毛な時の流れを味わったことはない。空前絶後の虚無だった。金銭が発生する以上、有意義さでは銅像のアルバイトの方が遥かに上回る。
だが釣っている彼らの方は完全に森羅万象と一体化してしまっているため、そんな不毛な時の流れは些細な事で、広い宇宙の中のほんの数時間……という達観ぶりだ。
さくっと無我の境地に行かれる前に慌てて彼の右手を掴むと、
「は、な、せっ」
光の速さで振りほどかれた。
「なんで、いいだろう! プロポーズの練習がしたいんだ!」
「だからそれは、付き合うを通り越してんだよ、色んな意味でッ」
「南クンッ、僕のお嫁さんになってくれませんかーー!」
「ダサいあだ名をつけるなぁぁぁッ」
逃亡しようとする彼と引き止めようとする僕とで、いつの間にか取っ組み合いの膠着状態になっていた。実力は五分と五分。共に釣竿と花束を地面に投げうって、本気の臨戦態勢である。
互いに一歩も引かぬまま、じりじりと睨み合いは続く。やがて「協会」の鐘が午後二時を告げ、その朗らかな鐘の音を合図にするように僕はさっと身をかわし、素早く彼の右手を捻り上げた。
「いてててててて」
「観念して、お嫁さんになるのだ!」
「どう考えてもお嫁さんに対する態度じゃねぇだろこれは!」
潰れたまんじゅうのような悲鳴を上げて、和田浜南町は身をよじった。
僕は隙をついて手を引っ張り、そのまま容赦なくその右手を恋人の聖地のモニュメント手形に押し付けた。間髪入れずに自分の左手もクロスして置き、強制的にカップルを成立させる。
「てめぇ!」
ツイスターゲームより無茶苦茶な体勢でもみ合っている我らの下に小学生の集団が飛来し、バカでかい拍手と口笛を吹き散らした後オメデトウゴザイマス! と口々に叫び、そのまま走り去って行った。
「ふっ、天使たちに祝福されてしまったようだな……」
「小馬鹿にされてんだよ!」
ぺっぺっと唾を吐いて僕を威嚇したのち、和田浜南町は釣竿を拾い、再びそれを担ぎ上げた。
「ふんっ、オメーは本当にプロポーズが下手だな。俺の方が上手いんじゃないかってたまに思う」
「じゃあやってみせてくれたまえ、ホレホレ」
「お断りだね」
その場を後にしようとする彼の釣竿の先をはしっと掴んで、逃げようとする彼を阻止した。舌打ちした彼は、そのままずるずると僕を引きずって進んでゆく。
「つれないなぁ」
「釣る方なの、俺は。だからナンパなら付き合うけど」
「そんな不埒な事ができるかい」
フン、と和田浜南町が笑う振動が釣竿越しに伝わって来た。
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