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観光協会の鐘の音は、さながらウェディングベルの調べである。
チャペルはなくとも、ここ渚町には、愛し合う二人が望むものがすべて揃っている。
二人の未来のように澄み渡った清々しい青空と、ハネムーンにふさわしいリゾート地の景観。海鳥の祝福。そして日が落ちれば、月明かりが幻想的に辺りを包み込む。
その名のとおり月光に照らされる「ムーンテラス」の神秘的な情景は、僕を恋人の聖地たらしめる最大の所以である。
月光浴をするのなら、一人ではきっと寂しくて耐えられない。石造りのオブジェはとても近代的で、ともすれば月からの迎えを待つ、ステーションのようにも思えてくる。そうするといよいよ、僕は愛する人の手を掴んで離さなくなるだろう。
輝夜の遥か、潮騒の群青が遠く海を渡って僕たちの耳に届く……。
なんてロマンチックなのだろう、と僕は自分の妄想にうっとりとしながら、熱いため息をついた。
重たいドレスの裾を引きずりながら、数十分ぶりの懐かしい港に降り立つ。
連れ合いが飲み物を買いに行っている間に、東海岸町が再び僕の元へ声を掛けにきた。
「なんだ、すっかりその気じゃない」
ウェディングドレス姿の僕を見て、満足げに腕を組む。
「ついに、僕の長年の夢が叶う時が来たらしい」
「中々の美女じゃんか。……でもその恰好って、逆ナン成功するのかなぁ……」
「何を言うんだい、女性は花嫁姿がもっとも美しいんじゃないか!」
自信満々にぼよんと胸を叩いた後で、僕は東海岸町に礼を告げた。
「ありがとう東海岸町! これで熱海はまた、新婚旅行の聖地に返り咲きさ!」
船を降りる人々のいつもより熱い視線を感じ、僕は東海岸町のこのアイディアに確かな手ごたえを感じた。
純白のヴェールに、パールの散らされたレースの手袋、Aラインのドレスは優雅なシルエットで、足元にはサテンオーガンジーのスカートが波のように広がった。もちろん衣装だけではなく、容姿そのものも華麗な美女に変えてある。
こんなに美しい花嫁が新郎と手に手を取って渚を闊歩していたら、それはもう素敵どころの話ではない。全国のカップルがこぞって真似したがり、熱海に押しかけてくるだろう。
ああ、華やかな栄光の日々よ再び!
「それはよかった。でね、渚町。重要なのはここからでぇー、君には是非その姿でひっかけた男を湯けむりにまいて……」
「うんっ! 二人は幸せに暮らしてハッピーエンドというわけだ。それじゃあ東海岸町、僕はこれで! 早速リハーサルをしてくるよ! あっはっはっは」
ウェディングドレスの裾を持ち上げて走り去る僕に、東海岸町が何か言っていたような気がするが、なんせ全力疾走だったのでそれはすぐに風の彼方に消えてしまった。
花嫁姿の僕は一直線に海釣り施設の方へ向かっていた。
「み、な、み、クーーーンッッ」
いつもよりオクターブほど高い声が、防波堤の上に響く。釣りをするオジサマ方がこちらを振り向き、突然の美女の襲来に飛び上がって驚いた。
「どうだーい!? この女神級の完成度は!」
……と、ここまでは完璧な流れだったのだ。
和田浜南町がこちらを見て、氷点下までその表情を凍りつかせるまでは。
「ふっふっふ! それでは早速練習相手になって頂こうかな。あまりの尊さに腰を抜かすんじゃないぞ。ゴホンッ、それでは……南クン、僕の旦那様になっ」
まで言ったところで、僕の体は宙に吹っ飛んでいた。
「……永、遠、に……ッ、一人で新婚旅行してろ……ッ」
「んなっ!?」
すぽーんと放り出されたその眼下に、氷のように凍てついた和田浜南町の顔が見えた。まったく、なんだいその寒々しい表情は。ここは常春の温泉郷だというのに、仲間に向かってそんな顔をするものじゃ……
「ひどいじゃないかああああああ!!?」
しかし今度も、「……うぐっ」
着地先に地面があったのは幸運である。げほげほと咳き込みつつ僕はひとまず一命(?)をとりとめた事にほっと安堵した。
……のも、束の間。
―オー・ド・パラディ高速船、出航致します……
「何ッ!?」
重低音の汽笛と共に、先ほどより重々しい船体が海原に向かって滑り出す。
「オー・ド・パラディ」それすなわち、初島へ向かう高速船である。
「南クーーーーーーーーンッッ!」
帰ってくるのは、夜になるだろう。
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