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「お待たせ」  きりっと冷えたマティーニが差し出された。緋紗は一口飲んでからピンに刺さったオリーブをかじった。緋紗は一杯を飲んでしまうと気持ちが朗らかになりおしゃべりになった。 「もしかしてマティーニ飲んでます?美味しいですよねー。私はカクテルの中で一番好きなんです。オリーブも美味しいし」  機嫌よく男に話しかけると男も微笑を浮かべて静かに話す。 「そうですね。僕も香りが爽やかで飲みやすいからショートはこれくらいしか飲まないですよ。あまりカクテルには詳しくないしね」  カラカランとベルが何度か鳴った。二人きりだった店にも何人か客が入り賑やかになってくる。緋紗がもう一杯マティーニを頼むと男はジントニックを頼んだ。ぽつりぽつりと話すことに緋紗はなんだかリラックスして気分がよくなってくる。女が一人で飲んでいるとこういう風に誰かから話しかけられることが少なくはないが、やけに話したがったり酒の注釈をしたりで下心がないにせよ面倒になってくる。 この男も自分と同じように酒と雰囲気を楽しんでいるんだろうと解釈をして緋紗はまた一口マティーニを口に運んだ。カウンターにぼんやり右手を乗せて『ハバネラ』のリズムを機嫌よくとっていると、「松脂の香りがする」 と、唐突に男が言った。緋紗は慌てて右手をひっこめた。その仕草に男は首を少しかしげる。 「どうかしました?」 「私の指です。たぶん……」 「指?」 「ええ。昨日夜中まで窯を焚いててその薪の匂いが残ってるのかなと……」 「窯? 陶芸? 」 「そうです。そうです。私、備前焼作家の弟子やってるんです」 「ああ。それでマスターは『女のお弟子さん』って呼ぶんですね」  ここで自分のことをマスター以外に話したのは初めてだった。 「僕は林業関係だからいつも杉とかヒノキに囲まれていてね。松の香りをすごく久しぶりに嗅いだ気がしたんだ」 「リンギョウ?」 「そう。『きこり』って言えばわかりやすいかな。植林したり伐採したり、まあ森を整える仕事です」 「ああ。なんとなくわかりました。でも、そんなお仕事してる人身近に聞いたことないです」  緋紗には林業などと聞いても頭に漢字が浮かんでこなかった。 「メジャーな仕事とは言えないし、きつい仕事だからやりたがる人もあんまりいないですからね。だけど、ここ何年かで見直されてきているからだんだん増えてきていて女性も活躍してきましたよ」 「へー」  緋紗は木を燃やすばかりの仕事なのでなんとなく後ろめたい気がした。気を取り直して、「それでなんだか木のいい香りがするんだ」と、返した。 「ん? ああこの匂いは香水」 「そうなんですか。すごく自然な気がしたので。なんて香水ですか」  名前を聞かれて、男は少し苦笑しながら答えた。 「エゴイスト」 緋紗はきっと彼女のプレゼントだろうと思いながら話す。 「有名なやつですね。でも香りと名前があんまりあってる気がしないですね」 「うーん。もらいものなんだけど。僕に香りじゃなくて名前がぴったりと言ってくれたんだ」  ちょっと回想しているように男は言った。 「彼女からすると勝手に思えたんですかね」 「そうですね。最後のプレゼントだったし」  ――最後……? 「ごめんなさい」  詫びる緋紗に男は笑む。 「いいんですよ。もう何年も前のことだから」 「まあ名称はともかく香りは気に入っているからそのままつけ続けているんだ」 「似合ってますよ」  うんうんうなずいて緋紗は空になったグラスと壁の丸い時計を見た。 「マスター、おかわり!」 「終電、大丈夫?」  グラスを下げながらマスターが気遣う。 「もう一杯はいけそう」 「お酒強いですね」 「強いというより単に好きなんです」
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