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『岡山駅~』とのアナウンスにはっとして電車を降りた。にぎやかな地下街を歩いて間もなくさらに賑やかで鮮やかなドレスの色が飛び交う華やかな会場に到着した。  チケットを渡し受付嬢からプログラムを受け取る。華やかな受付嬢に緋紗は緊張し行儀よく頭を下げた。自分の席を見つけて座った時には、やっとほっとした。ドレスコードに自信がないので会場の雰囲気や周囲の人々に目を向けずプログラムを眺めた。オペラは好きだが詳しくはないので出演者を見てもどれだけ有名なのかわからない。ただ会場の熱気からすると人気の歌劇団なのだろう。――ファムファタルか。  緋紗は陶芸が人生の中心であるため恋愛内容には関心がもてない。ホセのカルメンに対する濃厚な気持ちには理解ができなかった。ただしカルメンの好きなことをやり続けるスタイルには多少、共感した。 「まあカルメンみたいに男うけすることはないけどね」  一言呟いたとき、「すみません」と、落ち着いた声と深い森林の香りがした。隣の席に座りたいのだろう。男が緋紗の組んだ足を下げてほしいようだ。 「あっ。スミマセン」  慌てて組んだ足をおろす。座った安堵ですっかり周りが見えなくなっていたみたいだ。 「いえ」  しっとりした柔らかい声に緋紗の安堵感が少し戻った。気を取り直してプログラムに目を通し始めると、会場にアナウンスが響き照明が落されてくる。幕が開け前奏が流れてきた。  余韻が残ったままうっとりとして緋紗は席を立った。ふわふわと気分よく化粧室に立ち寄り、やはり周囲に気を配らずにホールを後にした。そこから歩いて十分くらいの小さなビルの二階に岡山市まで来ると必ず寄るショットバー『コリンズ』がある。  少し重ためのドアを引くとカラカランと乾いたようなベルの音する。 「いらっしゃい」  短い髪をジェルで固めたオールバックのマスターが明るい声をかけてくれる。 「こんばんはー」  緋紗も明るくあいさつをする。 「やあ。久しぶりー。女のお弟子さん」  一番最初に立ち寄った時に自分が陶芸家の弟子をしている話をした。それからマスターは緋紗を『女のお弟子さん』と呼ぶ。今時でも陶芸家の弟子をするのは男が圧倒的に多かった。マスターはそんな緋紗を面白がっているのか、珍しがっているのか、長ったらしくそう呼ぶのだった。いつも座るカウンターにするっと滑り込むと隣に男が座っていた。バーは淡いブルーとグリーンのライトでカウンター内の酒類が照らされていて薄暗く、ボックス席二つとカウンター席六つのみで、こじんまりとしているが、せまっ苦しい感じはない。 隣の男はグレーっぽいスーツで静かに飲んでいたので不注意な緋紗は座って初めてその存在に気付いたのだった。今のところ客は緋紗とその男だけで席は空いているにもかかわらず不用意に並んで座ってしまった。心の中で(しまった)と思ったがそこで立ち上がって席を移動するのも気まずく、「こんばんは」 と、声をかけて気にしないふりをした。隣の男は少し身体を緋紗のほうに動かして落ち着いた声で、「こんばんは」と返した。 声と動いた時の香りにはっとする。――あれ?どこかでおんなじことがあったような気がする……。  そう思ったが男の顔をみないままマスターに、「マティーニお願いします」と注文した。 「今日はどこか行った帰り?」 「オペラでカルメン観てきたんです。生の歌声ってめっちゃ感動しましたよー」 「ああ、それで正装してるんだね。一瞬、誰かわからなかったよ」 「あはは。こんな恰好結婚式以外しないよね」  マスターが笑いながら、どっしりとしたビーカーに氷とベルモットとジンを注いでマドラーをくるくる回している。その手つきを眺めている緋紗に隣の男が声をかけてくる。 「さっきも隣の席でしたよね」 「え」  そう言われて思い出した。――私の足が邪魔になった人?  ここで初めて緋紗は男の顔を見た。右手の甲に顎を乗せ左手で銀のフレームの眼鏡をかけ直している。涼しそうな目元。――ここらへんの人ではないよね。  マスターの丸くて人懐っこい目と比較して見た。 「ホセって熱いですよね」  緋紗は思ったことをぼんやりと返す。
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