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若竜 逆鱗を渡す
「ひ、酷い目に遭った……」
げっそりした顔のデュランの下では、未だ興奮の覚めやらぬ竜がピイピイ鳴いている。落とされそうにはなったが、喜びを全身で表現する彼女を見ると怒る気持ちにもなれない。
《さあ、シュナ。進もう。まずはここから出よう》
一人肩をすくめ、ポンポンと軽く肩の辺りを叩いて促すと、シュナは大人しく指示に従う。
二人はデュランが歩いてきた方向に向かっていった。ざぶざぶ黄金色の海をかき分け、なだらかな傾斜を進んで小川から上がり、そして最後には大きな縦穴までやってくる。
《俺はあの上から来たんだ。あそこに戻れれば、と思ってるんだけど》
指差された先は闇に包まれていて見えない。随分と高い場所が目的地であるらしいことを教えられ、首を伸ばしたまま目を丸くしている竜はふと質問を口にする。
《デュラン、もしかしてあの上から降りてきたの?》
《まあ……竜騎士だし、迷宮の探索も俺の仕事の一つだからね》
《こんな深くまで一人で?》
《……まあ、俺はちょっと事情が特殊で、一人でも探索が許されてるし》
《そうなの? デュランってすごいのね!》
《…………まあね!》
尊敬の目で見つめられて思わず騎士が目をそらしたのは、降りたのではなく落ちたのだし、事の発端が自分がぼーっとしていてモンスターの突撃を避けられなかったことにあるからだろう。
彼が本当にすごければ、そもそもここに来ていない。
それでも誤解を訂正せずむしろ咄嗟に受け止めた上で爽やかな笑顔を見せてしまうのは、もはや染みついた性分だ。
《それより、見てもらえるとわかるかもしれないけど、ここの壁、とっかかりが少なくて、自力で登るのも結構大変そうなんだ。だから君の力を借りることができるなら、と思ったんだけど》
素直な竜はさりげなく話題が修正されたことに気がつかず、岩壁を見つめて納得したような顔になった。
《わたくしが飛んで、上までデュランを連れて行くことができれば完璧なのね》
《そういうことなんだ》
《飛ぶ……飛ぶのね。ちょっと待って。つまり羽ばたけばいいんでしょう? 待ってて、今ならなんでもできる気がするの……》
《いや、あの。無理はしなくていいからね? こう、駄目なら駄目で諦めて地道に壁を這い上っていくからね? 俺大体の事には適応できる自信あるけど、ちょっと君は跳ね馬に過ぎるというか、いや別にそんなところもチャーミングだとは思うけどね? シュナ? 大丈夫? 聞いてる?》
ぐぐぐ、と竜の喉から何かわかりやすく力が込められているような音が聞こえてきて、上で成り行きをうかがう騎士は成功しても失敗してもそれなりに苦労しそうな予感にハラハラしている。
シュナは自分の内面に集中を高めていった。人の感覚では肩の付け根、そこから生えている二つの翼の感覚を意識する。
(大丈夫。デュランだって乗せられたのだもの、もっといろいろなことができるはずよ。それに、少しずつだけど、わたくしの身体なんだもの。上手に……ううん。上手にできなくても、動かしてみせるわ)
上に、下に。ゆっくりと動かす動きを、次第に早めていく。風が起こり、足に乗せられている体重の感覚が軽くなる。一瞬フワッとした感覚を確かにつかんでから、彼女はあえて一度地面に降り立ち、ぐっと足を曲げて大きく翼を広げる。
《せー……のっ!》
気合いを入れたかけ声と共に、大きく羽ばたき、同時に地を蹴る。
ジャンプによって得られた浮遊感をそのままなくすまいと、何度も何度も空を下に掻くように翼を動かす。すると身体がゆっくりと上がっていくのが感じられた。
《よし! いいぞ、シュナ……上手だ。そのまま……》
優しくデュランが声を掛けてくれるのに励まされ、多少ぎこちなくも羽ばたき続けている。彼女にとっては随分と長い時間に感じられたが、心が折れそうになる度に見計らったようにデュランが声を掛けてくれたし、何より自分一人ならともかく彼を落とすわけにはいかないという気持ちが踏ん張りを効かせる。バランスを崩しそうになると、乗り手が巧みに身体をずらして重心の調整をしてくれたのも助かった。
《シュナ!》
呼ばれてはっとした時には、崖の上に出ていた。
慌てて羽ばたき方を変えて、どうにかこうにか地面に降り立つ。
四つ足がしっかりと地を踏む感覚と共に、どっと疲労感のようなものが全身を巡る。
ひらりと背中からデュランが飛び降りた。振り返って見下ろせば、底の見えない縦穴が背後に広がっている。
落ちないように二人で少し離れてから、ようやく実感が巡ってきて、彼女はむずむずした思いのまま騎士に鳴き声を上げた。
《デュラン、わたくし、飛べた。飛べたわ!》
《偉いぞ、いい子だ》
甘え声を上げる竜の首にデュランが手を回した。
するとまた、シュナの喉が熱を放ち、何かがそこからこみ上げてくる。
唐突な激しい違和感に彼女は咳き込む。その勢いに釣られるように、何かがぽろりと喉、顎の辺りから剥がれ落ちた。
ちょうどシュナの前にいて落ちた物を両手で捕まえることのできたデュランが、金色の目を見開く。
「シュナ、これ……」
何度か余波で咳き込んで落ち着いてから、彼女は改めて騎士の手の中にある物を確認する。どうやらそれは鱗の一つのようだった。彼女の身体の色と同じ空色をしていて、今は淡く光を放っている。
さっきから時々喉が熱かったのは、もしかしてこれのせいだったのだろうか、と納得する気持ちと、ではなぜ熱くなったり今剥がれたりするのだろう、と新たに浮かぶ疑問とに忙しいシュナの前で、なぜかデュランが瞳を潤ませたかと思うと、再びシュナの首に飛びついた。
「シュナー! ありがとう、大事にするよ!」
《なになに、デュラン、どういうことなの?》
驚いた竜がピイピイ鳴いても、しばらくの間デュランはすっかり感極まった様子で彼女をぎゅーっと抱きしめている。
苦しい、と竜が文句を言うとようやく離れてから、興奮冷めやらぬ様子でようやく教えてくれた。
《俺が吹いているこの笛は、竜の鱗からできているんだけど。この笛にも種類があって……喉の一つ、逆鱗と呼ばれる部分で作られた笛は本当に特別なんだ》
《どうして?》
《逆鱗以外の部分で作られた笛は、近くにいる竜を無差別に引き寄せる。一方、逆鱗でできた笛は、逆鱗の持ち主に、たとえどんなに遠くにいても届く。つまり竜が人に逆鱗を渡すってことは、あなたにならいつでも呼ばれていいですよって意味で……》
最初は熱弁だったが、後半は急速に冷め、ブツッと言葉尻が切れて沈黙が落ちる。
何とも気まずい時間が流れた。
逆鱗を渡す、ということが竜にとってどういう意味を持つか、お互いに共通認識を得られたところで二人とも同時にまた新たな問題に気がついたのである。
(そんなに大事な物を、意味もわからないまま、こんなにあっさり渡してしまってよかったのかしら……?)
だらだらと冷や汗が止まらない。シュナは竜なので汗は出ないが。
無言の時間がしばし流れた後、やはり最初に動くのはデュランの方である。
《シュナ。ちょっと頭を下げてみてくれないかな。こう、できれば喉が見えるような感じで》
彼は元々爽やかに優しいが、輪を掛けて口調が柔らかい。いっそちょっと気持ち悪いぐらいに優しすぎる。
しかしシュナは特に抵抗することもなく無言で頭を下ろしてみた。おそらく双方考えていることは同じだ。
そっと、シュナの鱗が剥がれた辺りにデュランが空色の欠片を戻そうとする。
あてがってみて少ししてから彼が手を離すと、同時にぽろりと喉から鱗が落ちた。
それはそうだ、一度剥がれ落ちたのだ、そんな元の場所に手で戻したぐらいではくっつかないだろう。
わかっていても思わず試さずにいられなかったのだ。こう、なんか今の出来事がなかったことにできないか、二人ともやってみずにはいられなかったのだ。
《……戻らないのね》
《……うん》
《こういうとき、どうすればいいの?》
竜騎士は一度動きを止めてから、そっと鱗を握りしめ、そして最終的に――たぶん、鎧の中に収納スペースのようなものがあって、そこに収めたとみた。
《大事にするから……》
一連の動きを無言で行ってから、先ほどと同じ言葉を繰り返す。
今度は噛みしめるように重々しく口にした上、声に隠しきれない震えが混じっているのが何とも言えない。
《でも、その……つまり、デュランがその鱗を吹いたら、わたくしに聞こえて、その時わたくしがデュランに応えればいいのよね? だったらわたくし、構わないわ。だってデュランは優しくて親切だもの》
シュナが慰めるように言うと、彼はもう一度感動したような面持ちで顔を上げたが、飛びつくことは今度は自重したらしい。代わりに自分が最初から吹いていた方の笛を指差して、ぽつりと呟くように伝えてくる。
《普通、竜騎士って続けてるとお気に入りと言うか仲良しというか、竜にも馴染みの相手が出てきてさ。そうすると、竜の方もこっちを気に入ってくれて、それで逆鱗を渡してくれるんだ。俺はどの竜にも嫌われずに乗ることができたけど、どの竜からも鱗をもらえたことはなかった。……そのまま、今度はどの竜も呼べない状況になった》
今度もいくつも疑問が浮かび、どうして、とシュナは当然思ったが、その言葉を口にするのに躊躇した。
デュランがどこか、寂しそうに見えたからだ。
《俺が着ている鎧は特別ってさっき言ったよな。この鎧は、いかなる外傷も持ち主に負わせない。迷宮内部を一人で歩けるようになるほどの安全を提供する。けれど、代わりに竜に嫌われて、笛を吹いても誰も応えてくれなくなる……そういうものなんだ》
どきん、とシュナの心臓が大きく高鳴った。デュランの金色の目が細められる。
《だから。君が答えてくれた時、信じられなかったけど……嬉しかった。もう、俺にそういうことはできないと思ってたから》
騎士は嬉しそうだが、竜の動揺は激しく、鼓動がうるさく身体の内側を叩く。ぞわぞわと全身をざわついた感触が走った。
(わたくしは……とんでもないことを、してしまったのではないかしら。いいえ。今、してしまっているのでは、ないかしら)
まるでその、心の中の疑問に答えようとでも言うかのように。
迷宮が大きく揺れたかと思うと、シュナの後ろの縦穴から何かがこちらに向かって飛び出してきた。
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