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若竜 手品に喜ぶ
団欒の一時はあっという間だった。
二人が食事の合間に会話をして概ね和やかな雰囲気を作っているのを、横でシュナは尻尾をびたんびたんと地面に打ち付けつつ(気がついたら止めるのだが、また無意識のうちにやっているので尾の自己主張は半ば不可抗力である)、それ以外は静かに見守っていた。
湯気を上げる鍋の中身や、合間に二人がパリパリ音をさせながら囓っている固形物に興味がないわけではなかったが……シュナは生まれてこの方、黄金色の液体以外を口にしたことがない。
「病気だからお薬しか飲めないんだよ。でも大丈夫。これは特別なお薬だから、これさえ飲んでいれば食べ物も飲み物も必要ないよ」
と父はにこやかに説明していたが、あの恐ろしい夜、彼はシュナが病気であるという説明は嘘だと言った。
ならば、彼の言っていたことのどこまでが本当だったのか。もしかすると他の人と同じように、普通の食べ物も口にすることができるのかもしれない。
――が。今の彼女は竜である。竜の食事とは、どんなものなのだろう。
絵本の中の竜は多種多様だったが、父から散々ねだって聞き出したイシュリタスの迷宮の知識を記憶の中から引っ張り出してくる。
この迷宮の竜は、迷宮内部に流れる特殊な液体、迷宮神水を飲むことで生きている。
逆に定期的にその液体を摂取しなければ死んでしまうため、迷宮からは出られない。
そこまで考えて、シュナは愕然とした。
(わたくし……なんて、馬鹿だったんだろう。塔の中でだって、わたくしは十分におかしかった。本の中の人と自分、何もかも違うのは、とっくの昔にわかっていたはずなのに)
人の形をしていながら、竜と同じような生き方をしていた。十八年間。そのことに今気がつく。自分の愚鈍さにはもはや呆れて笑えてくる。
……けれど。
それだけ、信じていたのだ。父親を。たった一人、彼女と言葉を交わすことのできた男を。
「シュナは僕の大切な娘だよ」
そう言って微笑む彼の言葉を、偽物になんてしたくなかった。
ああ、思い出は切ないばかり、謎を生むばかり。
シュナはゆるゆると頭を振って、現実に戻ってくる。
二人の人間の食べる様子に意識を戻し、推測する。
(もし鍋の中身なり持ち物なり、何か食べていい物があるのなら、デュランは真っ先にわたくしに勧めてくれるのではないかしら。そんな様子がなかったということは……やっぱり竜は人間の食べ物を、食べないか、食べられないのね)
一人で納得している彼女の前で、男二人が手を合わせている。
どうやら終わったらしい。
一息ついた男達は、迷宮に流れる川に後片付けに向かうようだ。
後ろから覗き込んでデュランの髪にもはや鼻先を乗せているシュナに顔を向け、皿洗いをしながら男が尋ねた。
「そういえば閣下。こちらの方のお名前は?」
「あ」
デュランは自分の分の器を脇に置くと、慌てたように笛を取り出して口に含む。
彼が向き直ったのでシュナは頭を少し上げた。
《ごめんよシュナ。紹介が遅れてしまって。こいつはジャグ=ラングリース。俺の……まあなんていうか、知り合いだ》
シュナも言われて気がついた。
そういえば流れで食事を始めていたが、この新たな人物が何者であるのか、シュナはわからないままだった。
《ラングリース、でいい。その……どうも少し、君と話したがってるみたいだから、君がよければ、なんだけど。呼びかけてもらっても、いいかな? こいつは笛を持っていないから……まあその。細かい部分は俺が補足するから》
笛を使って伝えてくるデュランの意思がどうも今までに比べて若干勢いがないというか後ろ向きというか……ともあれ、シュナはなにやら期待の顔で待っている男に向かってピイ、と声を上げた。
《初めまして、ラングリース様。わたくしはシュナ》
「……名前はシュナ」
「おお、シュナ様ですか。お初にお目にかかります。しかしお声もお名前もかわいらしい方ですな――なんで小突くんです閣下、結構痛いですそれ、老体のあばら骨をもっと労ってください」
デュランはシュナの言葉をぶっきらぼうに伝えたり、愛想良く彼女に笑って手を出してこようとする男の脇腹に肘をがっと入れたり、どうも機嫌があまりよくないらしい。
そういえば、とシュナはラングリースの名前を呼んだところでふと気がついた。
人には苗字と名前がある。デュランだって、デュラン=ドルシア=エド=ファフニルカと長ったらしい名前を名乗っていた。
そして人間とは、関係性によって呼び方を変える生き物なのである。
自分は本当にうっかりが多い、と彼女は慌てて口を開いた。
《ねえデュラン。わたくし、今まで馴れ馴れしすぎたかしら? ラングリース様は苗字で呼んでいるのよね? デュランのことは、なんだか最初からデュランと呼び捨てにしてしまっているけれど。ファフ……ファフニルカ卿、の方がいいの?》
首を傾げながら竜が言った瞬間、赤毛の青年の顔色が変わる。
まるでこの世の絶望を見た、という雰囲気だ。
シュナはぎょっとして、恐る恐る聞いてみる。
《……デュラン?》
《シュナー!》
するとまた彼は満面の笑顔に戻り、彼女の首に抱きついてきた。
……どうやら名前で呼ばれた方が嬉しいらしい。
寄り添う二人(というよりは一方的に竜にひしとしがみついている騎士)の方を見て鼻で笑ったような音を立てたラングリースが、ずずいとシュナの前に進んできて両手を広げた。
「ではシュナ様。お近づきの徴にほーれ、種も仕掛けもなーい……ぽんっ!」
ラングリースが大げさな声を出してから片手をシュナの前に出すと、彼の手の中にはいつの間にか小さな花が握られていた。
先ほど両手を見せたときは、何もなかったのに。
シュナは目を丸くして大はしゃぎする。
《すごいわ! ラングリース様は、魔法使いさんなの?》
「ふふふ可愛いのう、可愛いですのう。人間の皆様にもこういう素直で心洗われるリアクションを求めたいものです……」
ラングリースが言いながら流し目を送った先には、なんだか奇妙に目を細めているデュランがいた。
「いや、それぐらいなら俺もできるし」
《本当!?》
「ちょっと待ってて。ラングリース、こっち」
「えええ? ちょっとあの閣下、いくらなんでも大人げなさすぎません? そりゃまだ閣下は実年齢十九歳、若造とお呼びしてもよろしい年齢ですが――」
「い・い・か・ら!」
「いやいやいや、これはさすがにかっこ悪――なんでもないですわかりました、わかりましたよタネと花超速でお渡ししますから、ちょっと待って!」
デュランは割と露骨に嫌そうな顔をした男を向こう側に引っ張っていく。ついでに皿の類を鞄にしまい込んだようだ。
(デュランはわたくしの一つ上なのね)
なんて考えているシュナの前に、今度はデュランが一人だけ戻ってきて咳払いした。
彼女の前で何もない両手を振り、交差させ、ぎゅっと握りしめると、なんと両手に一本ずつ花が握られている。シュナは歓声を上げた。
《すごい! デュランも魔法使いなの!?》
《そうだよ、君だけの特別な魔法使いなのさ》
《じゃあ他にはどんな魔法が使えるの?》
《……帽子から鳩を出せるよ。あと、引いたカードを当てられるよ。あ、ごめん今は準備がないから無理》
《デュランって本当に……すごいのね! わたくし、上手に褒められないけど……すごいのね!》
《…………まあね!》
「閣下。笛持ちじゃなくてもなんとなく、閣下がこの初心な方に話していることは予想できるというか、どうせ私の印象を上書きしようとしているというか、格好つけた自分のイメージを吹き込んでいますね」
少し遠くから、何とも言えない表情のラングリースがツッコミを入れてきた。
するとデュランはシュナに花を渡して好きにさせつつ、ラングリースに向き直り、腕組みをした。
「俺の竜なんだぞ。あまり馴れ馴れしく接するのはやめてもらおうか」
「へーなるほど俺の竜……えっまさか、あの――まさかそんな、逆鱗をもらったなんてことは、仰りませんよね?」
シュナが大きな身体で小さな花を取ろうとして四苦八苦しているのを適当に手伝いつつ、デュランは懐から青色の小さな塊を出した。
シュナの身体の色と同じそれを見て、ラングリースは手で顔を覆う。
「そんな! 閣下から片想いキャラを取ったら、一体何が残ると言うんです!」
「むしろ残る物しかないだろ!?」
「こんなにつまらない男に育ってしまうなんて……」
「なぜ俺に笑いを求める!? というかさっき完璧に理解したとか言ってたから、てっきりもうわかってるものと思ってたぞ」
「いやいやいや……たまたま懐かれただけでそんな……逆鱗……? それはさすがにちょっと想定外ですよ」
うっかりと花が散って、シュナが悲しい声を上げる。
大丈夫まだ花はあるから……とまた新たにデュランが手の中から出すと、ぱっと笑顔が戻った。
今度は地面に置いた花をちょんちょんつま先でつついている。
竜がすっかり花に夢中になっているのを見てから、ラングリースは声を潜めて騎士に耳打ちした。
「少々、冗談抜きで。変化が起こりすぎではないでしょうか? これは、さすがに私の伝言だけで収まる事態ではありませんよ。なるべく早く地上に戻って、閣下の口から直に説明していただかねば、きっと皆様納得致しません」
「わかってる。ただ……シュナは卵から生まれてきたんだ。できるだけ慎重に、過度の刺激を与えたくない。本人にも、迷宮にも。正直出るタイミングも少し迷っている。何が起こるかわからないから」
「また一体なんてものを掘り当ててきたんですか……地上に戻るのが怖くなってきましたよ。あーきっと針のむしろだなー、やだなー」
「安心しろ、俺と比べたら絶対にお前の方が遙かにマシだ。一応頼りにしてるから、よろしく頼む」
ポン、と肩を叩かれてラングリースはうめき声を上げた。
地面の花を拾って竜の頭に器用に飾り付けてだらしなく顔を緩ませている騎士を見ると、彼のため息は更に深くなるのだった。
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