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若竜 夢を見る
二人の男は何か話し合ったり、交代で姿を消したりしていたが、荷物の交換や話が終わったらしい。ラングリースは装備を整え直すと、では、と頭を下げる。来た道を帰っていくつもりらしい。
……竜がいないと、岩場を登っていくのはそれなりに大変そうだ。
軽くラングリースがこれからたどるであろう道を見たシュナは、自分が途中まで乗せていこうかと提案をしてみた。
親切心だったのだが、なぜか真っ青になって大量の汗をだらだらかいているラングリースとニコニコ顔のデュラン、二人がかりで説得を受ける形になった。
「お気持ちは大変ありがたいですし、当方このような麗しく愛らしい方の背に乗ること自体はですね、全く以てやぶさかではないのですが、あの、それを仮に実行したら、その。間違いなく私は迷宮のどこかに埋まることになりますので……いえその、孤高の覇者様はですね、基本的には怒らない方ですけど、だから逆に怒った時が怖いというか……閣下、閣下。わかってます。わかってますからああん、そんな、それマジで痛い鎧の角がめっちゃ痛い茶化してないと涙出そうなほど痛い」
《シュナ、いいかい? 俺たちは逆鱗を交わした仲なんだ。だから君は、俺以外の誰かを乗せちゃいけないんだよ。君は俺の竜で、俺は君の竜騎士なんだからね。いい? 俺の竜なんだからね?》
(確かにわたくしは逆鱗を渡したけれど、あれって半分事故みたいなものだったと思うのだけど……?)
釈然としない気持ちを抱えつつ、早口にまくし立ててくる二人に向かってシュナは素直にはいと答えた。ぴう、と短い音が口から出る。
ラングリースはなぜか話している間から、半分ほど武装したデュランにずっと小突かれていた。一応ラングリースも防具を着ているとは言え、デュランは鎧を着込んだ上で相手の防具の隙間、柔らかい脇腹にぐいぐい肘を入れている。やられている方が繰り返し主張している通り、結構痛いのではないだろうか。
《デュラン、あまりラングリース様をいじめるのはよくないと思うわ》
シュナが諭すように言うと、いかにも渋々と言ったように騎士は身を引く。
物知りで親切で優しい男だと思っていたが、考えているよりはもしかすると子どもっぽいところもあるのかもしれない、なんてシュナはこっそり考える。
ラングリースは感激してシュナに近づこうとしたが、結局横で見張っている竜騎士の妨害で一度も触ることすら許されず帰って行くことになった。
「ご安心を、閣下! 閣下が迷宮で純情な幼児を誑かしてきたこと、必ずやお伝えして参りますので!」
崖を登りきった後、そんな捨て台詞を吐いて男は姿を消した。
最後の言葉に拳を振り上げたものの下ろし所を失ったらしいデュランが、大きく息を吐き出す。
「さて……上がどう出るか、またちょっと待たないとな」
《上?》
《外の世界さ》
外、と聞いてシュナの胸の中にむくむくと疑問が浮かんで膨らむ。しかしそれらが言葉の洪水となって流れ出そうになるのをとどめたのは、未だ色褪せぬ恐怖の記憶だ。
(知りたい……外の世界って、どんなところ? 聞きたい! でも、あの時のことを思い出すのは嫌。あの時と同じようなことが起こるなら……)
逡巡している間に、デュランが何かの準備を始めてしまった。
荷物を寄せてまとめたかと思うと、鞄の一つを枕に仰向けになり、先ほど受け取ったタオルですっぽりと顔を覆う。胸の前で両手を組んで、後は脱力。
しげしげ覗き込んだシュナは首を傾げながら問うた。
《デュラン。また眠ってしまうの?》
「実際寝不足なんだ……何かあったら起こして……」
《あなたって本当にお寝坊さんなのね》
「んー……シュナ、ちょっとは遊んでていいけど、あまり遠くに行かないように……」
笛ではなく直接口から出てくる返事は既に半分寝ぼけている。
呆れつつも、シュナは仕方ないなあと側に腰を下ろした。
流れる水の音だけが聞こえる。無音が過ぎると逆に緊張する所もあるから、自然な変化の音は耳に心地よい。騎士の方になんとなく視線を移すと、微かにではあるが、ゆっくり胸が上下していた。
(ここは安全な場所だってデュランは言っていたし、今度は随分長くこのままみたい。わたくし一人でこの場を離れるのも……危ないだろうし、もし起きたときにわたくしがいなかったら、きっととてもデュランは驚くわ。あまり遠くに行くなと言われているもの。我慢、我慢)
重ねた両方の前足の上に首を下ろして、彼女はぴゅう、と鳴き声を漏らす。
(お寝坊さんでもいいけど、お話しをたくさんしてくれる人がいないと、ちょっと退屈かも。寝ていたらお花だって出せない。そういえば、さっきは短い間で警戒していたから感じなかったけど、竜は眠りを必要とする生き物なのかしら?)
ぱちぱちと瞬きをする。相変わらず、目の前には水場と無骨な岩壁と、胸の上下運動がなければ生死の心配をしたくなるほどぐっすり寝こけている騎士の姿があるのみだ。
ようやく気が抜ける。そう思うと、どっと身体に重さを感じる……ような気がしてくる。
次第にうとうとと、シュナの意識が微睡んできた。
(塔でだって毎日寝ていたもの。身体が変わっても、やっぱり眠りは必要なのだわ……)
そんな思考を最後に、彼女の意識は一度途切れた。
遠い、遠い、どこか地の底で。
誰かの歌声が聞こえる。
……呼んでいる。
――シュナ、シュナ、可愛い子。
そちらは駄目。外は危険。
わたしのただ一つの宝物。
大事に包んで愛でて、どこにも行かないように囲ってあげる。
一緒に星空の夢を見ましょう。
さあ、母の胎内に戻っておいで――。
知っている歌声が誘う。
幾多の黒い影が谷底から手招いている。
彼女は立ち上がり、よろよろと歩き出そうとして――。
「――ナ。シュナ!」
はっと目を覚ました。勢いよく顔を上げた拍子に、危うく覗き込んでいた方と頭をぶつけようになる。
わ、と声を上げて避けた彼は、一瞬だけ心配そうな顔をしていたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
《……うなされていたみたいだから、起こしちゃったけど。大丈夫?》
きょとんと、あるいは呆然と。騎士の顔を覗き込んでいる竜の鼻先をぽんと押して彼は笑った。
《何て顔してるの。これでお寝坊さんはお互い様だよ、ねぼすけのシュナ》
鼻先を撫でられるとむずがゆい。シュナは慌てて顔を引っ込めると、くしゃみしてからぶんぶん頭を振った。
《くすぐったい! それにわたくし、寝ぼけてなんかいないわ!》
《はいはい》
抗議の声を上げるが、騎士は笑って川の方に歩いて行ってしまう。
彼の金色の目と白い歯が作る明るい光に追い払われて、シュナの頭の中の影の幻影はすぐに思い出せなくなってしまった。
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