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眠り姫 誕生日を迎える
高い所にある小窓から見える光と闇。無機質な屋根。ふかふかのベッド。一カ所だけ小さな穴の空いた壁。いつもは開かない扉。月に一度、鍵束と黄金色の液体と本を手にやってくる大好きな人。
それが幼い彼女の世界の全てだった。
読み書きは大好きな人から教わった。
彼女が特殊な病気を持っているためここから出られないことも、ニンゲンのマナーとやらを教えてくれたのもその人だ。
小窓から見える光が明るくなって暗くなり、また明るくなると一日だとか、それが三十回ほど続くと一月とか、そんな知識も本と大好きな人から得た。
「オトウサマ」
それが個人の名前でなくニンゲンの役割を、関係性を示す言葉なのだと知った日、彼女には自然な疑問が一つ生まれた。
「お父様。ではわたくしのオカアサマは、どこにいらっしゃるの?」
ニンゲンには誰しも父と母がおり、その二つがどちらもなければ生まれ得ない。それもまた本から得た知識だった。
「わたくしの目はお父さまの色だけれど、ではわたくしのかみは、オカアサマの色なの?」
幼い子どもは明るい青色の髪を引っ張りながら、不思議そうに首を傾げる。
本曰く、ニンゲンの親は子と似ているのだそうだ。いや、子が親に似ているのだったか。
彼女の黒色の瞳は、なるほど部屋にやってくる大好きな人と同じ色合いだが、彼の髪は瞳と同じく黒い。
なぜなぜなぜ。幼い少女の疑問は尽きない。
彼女は普段一人で静かに本を読んで過ごしてばかりだから、大好きな人がやってくるとすぐに質問攻めにする。
彼は彼女に与えた絵本の一つをめくって指差した。
一番最初に読めるようになったお気に入りの本で、何度も何度もページがすり切れても毎日読み直していたものだった。
「ここで、お前のお母様と会ったんだよ」
それは世界を穿つ一つの巨大な穴だ。閉鎖空間であるはずが、星空も海も灼熱の大地も極寒の氷山も、全てが全てその穴の中に存在する。
――イシュリタスの迷宮。
人間の常識を越える謎の穴。未だに全容を明かさぬ未知の世界。
少女が真っ黒な瞳を好奇心の光一杯できらきらと輝かせると、男は目尻を下げ唇を緩めた。彼が表情を変えると、顔の半分を覆う紫色の痣も一緒にくしゃりと歪む。
「イシュリタスの迷宮の最奥で、僕はお前のお母様と会ったんだ。ここまで来られた英雄に報いよう、さあ願いと対価を差し出すがよい――そう言われた」
「まるででんせつの女神さま、イシュリタスその人みたいなことを言ったのね、オカアサマは」
少女はくすくすと笑う。男が困ったように眉尻を下げるのに気がつかず、彼女は賢しげに続けた。
「それで? お父さまはなんてこたえたの?」
空色の髪を撫で、絵本に目を落とし、男は沈黙を経てから囁くように声を漏らした。
「僕を愛してほしい。代わりに僕の全てをくれてやる。命も、身体も、心も、すべて。だから、あなたに愛してほしい。……自分でも馬鹿なことを言ったと思うよ」
低い声は小さくても腹の底に溜まって響くよう。
内緒話を聞いているようで、少女は小さな胸をときめかせながらこくりと唾を飲み込む。思い出を噛みしめるように、男は瞼を下ろした。
「彼女は……長い沈黙の後、それは自分の知らないものだからこのままでは与えられない。ならば対価として自分にその愛とやらを教えるといい、それなら全部解決するでしょう――そう、答えた。そうやって、お前は生まれてきたんだよ。一番幸せな時だった」
なんだか夢のような話だったが、きっと二人は幸せで、そんな二人の娘の自分も幸せなのだと、素直な彼女はニコニコ笑った。しかしまたすぐに新たな疑問が生まれ、眉をひそめる。
「お父さま。ねえ、それならどうして今、お母さまはわたくしたちといっしょにいないの? いちばんしあわせなら、今はいちばんじゃないの?」
今度こそ、彼は泣きそうな顔になった。ぎゅっと唇を噛みしめてから、押し殺すように言う。
「……僕のせいだ。全部、僕のせいなんだ」
彼の目は小さな窓に、それを通してどこか遙か遠くに向けられる。
幼心にも、何か自分がとても悪いことをしてしまったことは、容易に理解できた。
だからそれ以来、自分のお母様について大好きなお父様に聞くのは止めた。
時折絵本をめくり、日に日に擦り切れていく挿絵を見つめながら、こんな人かしら、あんな人かしら、とひっそり想像を巡らせた。
迷宮に、外の世界に、思いを馳せながら。
疑問は尽きることがないが、答えは本とお父様からしか得られない。
お父様を悲しい気持ちにさせてしまうと、自分の心も張り裂けそうになる。
だから彼女はいつしか、自分や自分の母についての質問はしなくなった。
代わりに外の世界のあらゆることを聞いた。
特に、迷宮の話を。
一度も訪れたことがない場所なのに、年を重ね幼いから若いと表現されるような年齢まで育つともう一つの家と言えるほど迷宮に詳しくなっていた。
お母様のことでは歯切れが悪くなるお父様も、迷宮それ自体やそこがどんな場所なのか、どんな生き物がいる所なのかはむしろ積極的に教えてくれた。
自分が行った時の体験も話してくれた。竜に乗って、最深部まで降りていった若い頃のこと。
彼が来たときは、彼女は寝物語に何度も冒険譚をせがんだ。
一言一句違えず暗誦できるようになっても、お父様から話を聞きたがった。
彼のいない時は何度も同じ本の同じ文章を読み、小窓の外にわずかに見える別の世界を夢見た。
小さく退屈な平和に最初の大きな変化が訪れたのは、彼女が十七の年になった日のことだった。
年と誕生日はお父様が教えてくれた。
彼女が成長するごとに、月に一度の訪問は二月に一度に、季節が変わるごとに、そして今では半年に一度にまで少なくなってしまった。
けれど誕生日の日だけは毎年必ずやってきてくれるし、いつもと少し違う特別な贈り物をくれるのだ。
十七の年、彼は彼女にドレスを持ってきた。
パーティーにお姫様が着ていくような、素敵なきらきらのドレスだ。
「もう立派なレディーだ」
早速手伝ってもらってその場で着替えると、お父様はそんな感嘆の言葉を漏らした。しかしそれきり俯いて黙り込んでしまう。
「もっと褒めてくださってもいいのよ?」
得意げに胸を張っていた彼女は頬を膨らませて文句を漏らした。
誕生日なのだ、彼女の日なのだ、もしかすると思った通りの出来映えではなかったのかもしれないが、少しぐらいおだててくれてもいいではないか。
すると、どこか思い詰めた様子の彼はこんなことを言った。
「来年になればお前ももう十八歳……大人の女性になる。そうしたら僕は、今までお前に言っていなかったことをすべて教えようと思う。お前が望むのなら、だけれど」
彼女は大きく目を見開き、それからぱっと花がほころぶような笑みを浮かべた。
「ほんとう? それが来年の誕生日プレゼント?」
「……ああ。ただ、覚悟はしてほしい。知らない方が幸せでいられることもある」
いかにも乗り気でないという浮かない表情に加え、諭すような彼の口調だが、彼女はめげない。小窓を指さして歌うように言った。
「でもわたくし、きっとまだ、何も知らないわ。自分が幸せなのか、不幸なのかも、きっとまだ知らないわ。違う?」
今度はお父様の方が目を見張った。
それから彼は、泣きそうな、それでいて笑っているような、奇妙な形に顔をゆがめた。
「そうだな。……覚悟するのは僕の方だ」
それから彼は、改めて彼女に言った。
「ドレス、よく似合っているよ。お母様にそっくりだ」
「来年になったら、お母様のことも話してくれる?」
「……ああ」
彼は眩しそうに目を細めた。彼女はすっかり嬉しくなって、その場でくるりと回ってみる。裾がふわりと広がって、ますます歓声を上げた。
どの年よりも長い一年だった。
とうとうお父様は全く訪ねてこなくなってしまったが、けれど彼女は十八の誕生日に約束が守られること、全てが解決することを疑いもしなかった。
指折り数え、焦れて待ち、当日は前日の夜から全く眠れなかった。
夜中から、日が昇り、高くなり、夕方になり――それでも彼女は、彼は来ないかもしれないなんてちっとも思わなかった。
去年のドレスに身を包み、お行儀良くレディーらしく待って見せようとしてはそわそわと立ち上がって部屋を行き来して、それを何度も懲りずに続けた。
音が聞こえたのは夕日もすっかり沈んで間もなく今日が終わってしまうかと言うところ。
待ちわびた人はしかし、全く彼女の予期しなかった格好で飛び込んできた。
「すまない、シュナ。説明の時間がない。今はとにかく、逃げるんだ。急いで!」
いつも、特に誕生日の日には、豪華とは言えないけれど、綺麗で好ましい格好をしていた彼なのに。服はあちこち破れ、髪はぐしゃぐしゃと乱れ、顔は元からある痣の上に赤黒い染みができている。表情は見たこともないほど険しく、恐ろしい。
驚き、怯えて身をすくませる彼女に大股で歩み寄り、有無を言わせず抱きかかえてしまう。
そのまま部屋を出ようとするので、彼女は驚いて大声を上げた。
「でもお父様、わたくしは病気で出られないって――」
「あれは嘘だ。お前をここに閉じ込めておくための」
かつてないほど冷ややかな口調でぴしゃりと言われ、彼女はじわりと目に涙が浮かぶのを感じる。
すると彼は、困ったように眉尻を下げ、少しだけいつもの優しい顔に戻った。
「ごめんよ。これが終わったら、ちゃんと話すから。今はお父様を信じて、言うことを聞いてくれないか」
彼女は唇を噛みしめ、頷いた。
――そうして連れ出されて初めて見た外の世界は、薄暗い闇に閉ざされ、どこにも行く先が見えなかった。
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