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眠り姫 外に出る
自分が今まで塔の中にいたらしいことを、その塔が森の中にあるらしいことも、外に初めて出て知った。
見えるもの、聞こえるもの、臭いも感触も全てが全て知らないもの。辺りが明るければもっと様子がわかっただろう。乏しい月明かりが視界の頼りで、影に入ってしまうと何も見えない。さらに父が彼女に自分の上着を与え、頭からすっぽり被せてしまったので余計に周りが見えにくい。
許される状況だったなら、彼女はいくつもの問いを父親似向けたことだろう。さすがにどんなに楽観的な性格をしていても、今がそんな場合でない事は理解できる。
けれど父が近くにつないでいたらしい生き物に近づき、彼女をその上に乗せると思わず反射的に疑問の言葉が漏れた。
「……馬?」
「そうだよ、馬だ」
荒く鼻息を鳴らし、前足を掻いているそれは、絵本で読んだ生きる乗り物だ。首が長くて、四本足で、蹄があって――今は暗いから、色等の詳細はつかめないが。
それにしても、人を乗せられるという知識は持っていても、実際体感してみると大きいし高い。おまけに腰掛けさせられた下で身動きするから、なんだか落ち着かない。というか怖い。
「お父様……」
「大丈夫」
半泣きになった彼女だが、すぐに父が後ろにひらりと乗ってきた。
二人分の重荷を背負わされて下でぶぶぶと不満が上がったのが聞こえる。
片腕は娘を抱え込むように、もう片方の手でまとめて手綱を握りしめた彼が合図をすると、馬は首を上下に振ってから歩き出した。彼女が父にしがみつき、目を白黒させながらも落っこちずに済んでいるのを見て取ると、彼は更にスピードを上げさせた。
初めて尽くしの彼女にとっては永遠にも感じられた時間だったが、案外すぐに木々はまばらになり、森は開けて見通しの良い場所になる。すると父は更に馬を駆けさせた。
「お父様、わたくしたち、どこに行くの……?」
彼女の問いに答えようとした父の言葉がかき消される。
辺りに別の音が響き渡った。
夜の中でも父が表情を険しくさせ、速度を更に上げたことがわかって彼女は身をすくませる。
ぽつぽつと森の奥で灯りが見えるようになった。それらはどんどん近づいてくる。父も馬も努力はしているようだが、どんどんその距離が縮まっていく。
「いたぞ!」
ついにそんな声が聞こえたかと思うと、あっという間に進行方向に何かが飛び出てきた。
やむを得ず急停止することで落っこちそうになった姫を、父の腕がぎゅっと支える。
彼らの行く手に出てきたのは、甲冑を着て馬に乗った人々の群れだ。行く手にだけでなく、横からも後ろからもどんどん現れる。
こんな、明らかに敵対していると予想される状況でもなければ、物語の知識で何度も夢見た騎士達の出現に娘は喜びの声を上げたことだろう。
父がさりげなく彼女に被せていた服をさらに引き上げて、全く顔を見えなくしてしまう。ぎゅっと抱きしめられて、彼女は音でしか状況を把握するしかなくなった。
馬の歩む蹄の音が響いて、止まる。どうやら周りを包囲する中から、一人進み出てきたようだ。
「ファリオン殿下。やはり生きていらっしゃいましたか」
「久しいな、ラザル」
聞き違いか勘違いでなければ、交わされた言葉は少なくともお互いを知っているという内容である。それに殿下とは何だ。彼女の記憶と知識が正しければ、それは身分の高い人間に向ける敬称だったはず。父は一体何者なのだ。
疑問は募る一方だが、同時に不安も胸の中で膨らんでいく。
「本当に久しい。二十年ぶりでしょうか? その顔の醜い痣がなければすぐにはわかりませんでしたよ」
声が言うと、途端一斉に周囲で嘲るような笑い声が忍び漏れた。慇懃無礼だとか、人を馬鹿にする笑いがある事を初めて経験する事になった彼女はすっかり怯えて小さくなってしまう。
「貴方が迷宮の奥に消えて、ある者は貴方の事を、他の愚か者同様に野垂れ死んだと言った。ところがいつからでしょう、不思議な噂が流れるようになった。貴方は生きていて、どころか迷宮の最深部に至って女神に至宝を賜り、生きて地上に舞い戻ったと聞く――」
どうやら会話の相手が、父が大事そうに抱え込んでいるものに気がついたらしい。
ぞくりと悪寒を感じて震えた身を、大きな手がなだめるように叩く。
「ではそれが、噂に名高い迷宮の至宝、ですか」
「……違う」
「つまらない嘘を吐くのはおよしなさい。さあ、我々と共にいらしてください。何も乱暴しようと言う訳ではない。二十年前とは情勢も変わっている。迷宮から戻った英雄である貴方を、もう誰も蔑むことはありません」
「私を英雄に仕立てあげて思い通りにしたいのは、そちらの都合だろう? お前達は何も変わらない。二十年前と、何も」
父の喋り方も違えば、口調も全く違う。
離すまいとでも言うようにしっかり抱きかかえられているからこそ、彼女には彼の震えが伝わってきた。
上着越しに伝わる気配がまた変わる。
より、不穏な雰囲気が増した。
「妾腹の出来損ないが、せっかく汚名を返上する機会をくれてやったものを」
聞いたこともない言葉だが、おそらく父をなじったのだということだけはわかった。
ぶるぶる震えて必死に涙をこらえている少女に、父が優しく低く囁きかけてくる。
「シュナ。絵本の一番最後のページ、魔法の呪文を覚えているかい?」
一瞬だけ理解する間を置いてから、彼女はこくりと頷く。
一番お気に入りの絵本。イシュリタスの迷宮について描いた本。
その最後のページに、奇妙な走り書きの一文がある。
父は何の落書きだろうと首を傾げていた彼女をある日膝に抱えて、これは迷宮文字と呼ばれるのだと説明し、読み方を教えてくれた。
普段は唱えてはいけない、本当に辛いときにだけ使っていい、秘密の呪文。
何が起こるの? と聞いた彼女に、実際唱えてみないと自分にもわからないのだと父は苦笑した。
――ただ、これだけは確実に言える。起動させたら最後、もう元の時間には戻れない。僕とも別れることになるかもしれない。
語られた内容の重さに幼い彼女は震え、絶対に唱えない! と威勢良く言った彼女を父は優しく撫でてくれた。
けれど、秘密という言葉に、何が起こるかわからないという注意に、けして消しきれない好奇心が動かされたのも事実。
結果として、少女は何度も絵本の最後のページをなぞることになったし、口にはしなかったが読み方を忘れることもなかった。
震えつつも素直に答えた彼女の様子に、父があの時と同じような優しい顔をした――気がする。服で覆われていて見えないから、確証は得られないのだけど。
「いい子だ。それじゃ……何があってもお父様を信じてくれるかい」
今度は何度もこくこくと頭を縦に振った。
だって、小さな部屋と本の群れ、時折やってくる父だけが、彼女の世界だったのだ。
わからないことばかり急に起きても、どうしてすぐに心変わりできよう。
少なくとも、周囲で彼に嫌な態度を向けてくる相手達よりは、ずっと信頼できる。
手に手綱が握らされる感触がした。父の身体が離れる気配がした。
追いかけようとしたが、間に合わない。
馬がいななき、彼女は必死に落ちないようにしがみついた。
ばさりと頭に被されていた覆いが落ちる、その瞬間――。
「もう一度、あと一度だけ、力を貸してくれ――ドラグノス!」
馬から飛び降りた父が高らかに声を上げると、まばゆい光が辺りを包む。
それに驚いたのだろう、彼女を、彼女だけを乗せたまま、馬が走り出した。
落ちなかったのは奇跡かもしれないが、暴走馬を止める手段はない。
「お父様――!」
「逃げろ、シュナ、逃げるんだ! 必ず後で迎えに行く! だから――」
あっという間に遠のく、彼の様子を視界に収めることもできない。父の声はすぐ男達の怒号に押しつぶされた。
「やはり特級宝器だ! 必ず確保しろ! 持ち主の生き死には問わん! お前達は至宝を追え!」
父とやりとりを交わしていた男の声が一際よく響く。
不意をついて囲いを突破はできたものの、すぐに指示を受けた追っ手達が迫ってくる音がした。
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