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眠り姫 人の死を知る
初めて外に出てまともに歩く人間が、全力で暗闇の中を駆ける馬に不安定な姿勢で乗せられてしがみついていられたのが奇跡だろう。
しかし馬の方も案外優秀だったか、あるいは単純に荷物が軽いおかげか、追跡の姿が消えることはないがその距離が縮まることもない。
「面倒な! 仕方ない、馬を先に――」
「退け。お前達では乗り手を殺す」
追っ手達が会話を終えると、きりきりと弓弦を引き絞る音が、そしてひゅんと矢が放たれる音が、空を無情に裂く。
数度は地面に突き刺さったが、ついに馬の後ろ足に命中した。
びくんと馬体が跳ねたかと思うと、もんどり打って倒れ込む。
まさに不幸中の幸い、転ぶ際背からうまいこと投げ出されたおかげで、彼女は特に目立つ怪我もなく馬の下敷きにもならずに済んだ。
ただ、多少身体は打ったし痛みを感じない訳ではない。
驚きと恐怖でぽろぽろと涙を流す彼女を、馬に乗った男達が四人程取り囲む。
「女……? 王子の愛人か?」
「さっき父と呼んでいた。娘のようだ」
「拾い子か? 傷物王子を相手にする女がいるとは思えない」
「しかし特級宝器持ちだ。顔はあれだが持ち物はいい」
甲冑の下から隠しきれない下卑た好奇の色を滲ませて、包囲の輪は狭められる。
「下がれ。迷宮の至宝について聞き出せない」
と、一人の男が他を制した。彼女からすれば揃いの銀甲冑は全員同じに見えるが、中身には何か格の違いのようなものがあるのかもしれない。
言われた方達は舌打ちをしつつも、大人しく引き下がった。
輪の中から歩み出てきた男は、ゆっくり視線を合わせるように片膝をつく。
「姫君、どうかご無礼をお許しください。我々は――」
ぶるぶる震えていた彼女だが、騒音が聞こえるとはっと顔を上げた。
男達もまた、同じく音の方を向いて身構える。
木々が地響きと共に大きく揺れたかと思うと、一閃走ってなぎ払われた。
「シュナ!」
聞き覚えのある声を発して現れたのは鎧だ。鎧を着た男だ。
全身を覆う分厚い装甲は漆黒、背にはマントが翻り、彼が手に持つ大きな剣が月の光を反射してきらめいた。頭部の角のような左右二本の突起や鱗にも似た身体の模様は、どことなく竜を思わせる見た目である。
言葉にならない声を上げながら三人の男達が、あっという間に宙を飛んだかと思うと地面に伸びた。
「お父様――」
喜びの声はすぐに悲鳴に変わる。跪いていた男がさっと腕を伸ばし、彼女を捕まえたのだ。金属の硬さと冷たさに、ますます身体の芯が凍える。
鎧の下から静かな怒気が漂い、父は人の身の程もある大きな剣を構える。
「ゲントル、その子を離せ。お前はラザルとは違うはず。斬りたくない」
「臣もこんなやり方は嫌いだ。嫌いだが……」
「これもまた、陛下のご命令か?」
「いかにも。あの方は貴方の可能性すら許せない。こちらの世界に舞い戻り、しかも力を手にしたと噂があれば、動かずにはいられない」
どこか諦念の滲んだ甲冑男の言葉に、鎧の下で何とも言えない乾いた笑いが上がった。
「陛下は一体これ以上何をお望みか? 私から全て奪っていったじゃないか。富も、地位も、名声も、家族も、恋も――それでもまだ、飽き足りないというのか。私は一度だって張り合おうと思った事はないのに」
「あるいはそれこそが、まさに理由なのでしょう」
「ならば互いにどうしようもないな……」
父はまたも、甲冑の下の人物と知り合いで、しかもそれなりにどういう相手か理解している間柄らしい。
混乱は深まるばかり、見知らぬ人物に抱えられたまま、彼女はただただ息を呑んで成り行きを見守る他ない。
「殿下、お答えください。迷宮の至宝はどこです。これは陛下の思惑だけではない。臣個人としても、かの宝物が実在するなら放ってはおけない。あれは人の世にあまりにも危険すぎる」
「そんなものは実在しない。私は確かに迷宮の底で女神に会った。私が彼女に願ったのは、地上に戻ること。彼女は私を祝福し、対価として二度と迷宮に入ることの叶わない呪いを私に与えた。二度と出会えない、そのかわりに自由をくれた……」
噛みしめるように言う、その言葉。
どこかで聞いたことのある余韻と、同時に発生する違和感に、彼女は眉をひそめ記憶を手繰る。
前に、同じ事を聞いたような気がする。けれど、明らかに違う。
彼はかつて言ったはず。昔迷宮で母に会った。彼女に愛を望んだと。
ところが彼は今こう言った。昔迷宮で女神に会った。彼女に地上に出ることを望んだ。
――イシュリタスの迷宮の最奥で、僕はお前のお母様と会ったんだ。
――僕のせいだ。
ずっと聞けなかったこと。今日聞くはずだったこと。切れていた線が繋がり、一つの答えを導きそうになる。
けれど思考は途中で打ち切られた。
彼女を未だ押さえつけている男が低い声を上げたのだ。
「それでもいくつかの疑問が残る。たとえば、そもそも貴方がここにいる、その事実。先ほどご自身で仰った通りではないですか。陛下に全てを略奪され、貴方は人の世にさほど未練がなかったはず。女神に対価を差し出してまで、地上に戻ってこなければならなかった理由とは何です?」
父は答えなかった。森の木々のざわめきだけが辺りに響く。
ふと、甲冑の男が何かに気がついたようにびくりと身体を跳ねさせた。
顔は見えないが、彼女は自分が驚愕の目で見つめられていることを悟る。
「まさか。本当に、ラザルの言った通り。これこそが、迷宮の至宝。貴方の答えなのですか」
そこから先は、一瞬の出来事だったのに、とても長い時間に感じられた。
父が身をかがめ、大きく腕を振った。
突き飛ばされる感触。一瞬の解放感。
目標を失って飛んでいく大剣は、甲冑の男の頭部を狙っていた。
体格の差と、思わず見下ろす動作を行った際にできた隙を父は見逃さなかった。
身体が地面に落ちる。今度は手加減なく思いっきり投げ飛ばされたこともあって、着地はただで済まなかった。鈍い音と共に腕に痛みが走る。彼女は戦いの光景から目を離せない。
竜を模した鎧をまとった男が地を蹴り、甲冑の男に飛びかかる。
けれど仰向けに迎え撃つ、男が懐から何か取り出す方が早い。大剣を避け様バランスを崩したかに見えたが、それすらも次の動作への移行。
鈍い音がもう一度響き渡った。今度は先ほどよりいくらか鋭い。
塔の中で平穏に暮らしてきた彼女は初めて聞くことになる。
人の腹が刃物で切り裂かれる音だった。
「宝器持ちは貴方だけではないことを、我々が日々何のために鍛錬を積み続けているかお忘れか。斬りたくなかったのは臣の方です、殿下」
銀甲冑の男は、同じく銀色の短剣を鎧の奥の柔らかい肌からその下の内臓まで、柄まで通れと深く差し込む。引き抜き様に捻れば、腹部からまた新たな血糊が吹き出た。
自力で立っていられない父は倒れ込み、かろうじて肘をつく。鎧が消え、塔に飛び込んできた時と同じ格好のままの父が現れる。ごぶっ、と音を立てて口から赤黒く鉄寥臭い液体が吐き出される。
甲高い音が夜の闇を裂いた。
それが自分の上げる悲鳴なのだと、彼女は後で気がつく。
「お父様っ――」
駆け寄る彼女に、甲冑の男が何か手を伸ばそうとしたが、そのまま見守ることにしたらしい。
短剣を軽く振り、血を払い、更に拭ってから甲冑の隠し鞘に戻す。
倒れ込んだ彼に駆け寄ると、黒い瞳が定まりにくい焦点の中娘を探して揺れる。
「ごめんよ……僕は本当に、弱くて馬鹿な男だ。ただ、星を……」
「星? 星って何? お父様、いや! やだ、ちゃんとお話しして!」
縋り付く娘に一瞬だけ向いた目がふっと遠のき、奇妙な光が、秘めて燃える不穏な情熱が奥に浮かぶ。
「ああ、シュリ……ぼくの……」
そしてその光が、蝋燭の火が風に吹き消されるように失せるのと同時、父の全身から力が抜けた。
「お父様……お父様……?」
彼女は父に触れながら困惑の声を上げた。しかしもう彼が応じることはない。
「お父様……ねえ、お怪我が痛いの? 疲れてしまったの? だから眠ってしまったの……?」
死に初めてまともに直面した彼女は、涙をポロポロとめどなく溢れさせつつ、どうしようもできず父を揺する。最初は困惑が強い。彼が二度と動くことがないとわかると、今度は衝撃で何も考えられなくなる。
彼女が死を体感し、本能的にその意味を理解して動きを止めた頃、静かに見守っていた甲冑の男が近づいてきた。
「姫君――」
「いやっ! 触らないで!」
父親の身体をかき抱いたまま娘が下がろうとすると、手がずるりと滑る。
彼女の手も、誕生日プレゼントでもらったせっかくのドレスも、みるみるうちに汚れていく。
甲冑男が立ち止まり、何かを言おうとした時また別の音が鳴り響いた。
すぐに音源は現れる。
「ゲントル!」
「……ラザル。生きていたのか」
「頭を打って気絶していただけですからね」
「つくづく悪運の強い……」
馬に乗ってやってきたのは最初に父と口論していた甲冑だ。ぞろぞろと数名部下を引き連れている。
父が仕留めきれなかったのか、意図的に逃がしたのか。
ともかく、ただでさえ分の悪い彼女の状況がますます悪化したことだけが確かである。
「そんなことよりも。どうしてくれたのです? 迷宮の至宝の在処を知っているのは殿下だけ。ちゃんと聞き出してから殺したのでしょうね」
「拷問したところでどうせ同じ結果だ。答えない」
「どうだか。しかし、あれだけ後生大事そうに抱え込んでいたから、てっきりそれが至宝なのだとばかり思いましたが……なんだ、ただの小娘でしたか」
甲冑の中から冷たい目に射貫かれた気がして彼女はぶるりと身震いした。
「では、この方は臣が保護させていただこう」
「馬鹿を言うものではない。貴重な手がかりです。武功を誇るのは結構ですが、勝手に手柄を独占されては困る」
言い争う男達を前に、彼女の心が冷えていく。
彼らは今、彼女の今後について話しているのだ。
彼女から大事な人を奪っておいて、勝手に彼女の未来まで決めようとしているのだ。
胸の中に初めて灯った激しい感情。それを怒りと呼ぶことを、まだ彼女は知らなかった。
「おい。妙な動きを――」
こちらの異変に気がついた、ラザルと呼ばれた方の男が彼女を牽制する。
父を殺した方の男も振り返る。
――本当に辛いときだけ。
でも、これ以上辛いときなんて、きっともう来ない。
だから。
嫌いな者達を泣きはらした目で睨みつけ、彼女は今度こそかすれて途切れた呪文を全てつなげた。
「オルタペンド・セザミア。ペルカ・マ・アペ・マナ――イシュリタス!」
それを口にした瞬間、ずん、と腹の底に響く沈み込むような感覚があった。
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