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若竜 騎士と会う
喉から鳴る音は、空を裂き、耳に残る先ほどまでの鳴き方とは全く異なっていた。腹の底に響くようでありながら、注意を向けていないとあっという間に聞き逃してしまいそうだ。
《お父様、お父様! 無事だったのね、よかった! 迎えに来てくれたのね、嬉しい!》
彼女は何度か同じ音を奏でてから、おや? と首を傾げた。
人の言葉は出てこないが、彼女の考えていることを思いながら喉を震わせると、不思議な響きの音が必ず出てくる。
(よくわからないけど……もしかして、わたくしは今、竜として喋っているのかしら? これって、竜の言葉なのかしら?)
確か昔、父に聞いた話では。
迷宮に住まう生物の中で最も尊く、美しい四つ足と二つの翼を持つ生き物――竜は、独特の音を奏で、それを彼らの言葉にやりとりをしているらしい。
竜は歌う。ゆえに、竜の歌の真似をすれば人も竜と意思疎通を交わすことができる。
そのために特別な笛があるのだと、確か彼は言っていた。彼はそれを吹き、相棒を呼んで迷宮の奥に潜ったのだとも。
(では、わたくしの鳴き声に答えたのは、笛の音だったのかしら)
黒い目を何度もパチパチと瞬かせ、首を左右に捻る彼女を、鎧の男はしばらくちょっと距離を置いた所から見守っていた。
……というより。この雰囲気はもしかしてもしかすると……困惑、しているのだろうか?
(お父様、わたくしがわからないのかしら)
《わたくしよ、シュナよ。ねえ、お父様。わからないの?》
彼女が翼をばたつかせながら鳴いてみると、今度はまた別の音が喉で鳴る。
呼び声に近いが、あれほど高くはない。ピャーン、ピャーンといかにも何か訴えかけていそうな声の調子だ。
(でも、それもそうよね。だって、こんなに変わってしまったし、たぶん変身するところを見ていないのだもの。見分けられなくても当然だわ。どうしたらわたくしだってわかってもらえるかしら?)
彼女がしょんぼりとうなだれ――そうするとまた喉の奥から、悲しそうなきゅーきゅーと鳴る音がしたのだが――大人しくなると、ようやく相手の方が動き出す。
鎧の男が注意深く、黄金色の液体の中を歩いてきた。
おっかなびっくり、という表現が正しいだろうか。手を変な風に彷徨わせながら近づけてくる。
すると彼女の身体は何もしていないのに自然と動いて、すんすんと男の差し出した手を嗅いでみている。
(……?)
別に臭くはない。かといっていい匂いがするわけでもない。
ただ、今何か違和感を覚えた。
再び首を傾げて考え込もうとした彼女だが、がくっと自分の頭が下がって驚く。
(なになに、何が起きたの!?)
危うく黄金色の液体の中に頭を突っ込みそうになって慌てるが、なんとかそれだけは阻止できたようだ。……口の中に親しんだ味が多少広がったようだが、まあ大したことではないだろう。
少しじたばたしてから、自分の身体がどうやらお辞儀するように鎧の男に向かって頭を下げたことを理解する。
男がびくっと身体を震わせた。
(びっくりした……! ああもう、この身体、動かないと思ったら勝手に動き出して。本当に慣れないんだから!)
自由が利くようになるとすぐさま頭を上げてブルブル首を振る彼女だが、その際男の様子が目に入ってふと動きを止める。
彼は信じられない、とでも言うように、何度も自分の手と彼女を見比べている。微かに身体を震わせていた。また、彼女の中の違和感が大きくなる。
鎧の人物を見つめているうち、ウー、と低い声が鳴った。
それが自分の唸り声だと気がついて、居合わせた人間よりも本人――この場合本竜、なのだろうか? 彼女が一番目を丸くしている。
(今度は何? わたくし、今……唸ったの? どうして?)
制御の効かない自分自身に次第に大きくなる不安は、しかし次に起きた出来事への注目と感じた衝撃に塗り替えられた。
男が――どうやったのかは知らないが。鎧を脱いだのだ。頭の部分だけが露出する。しかし、脱いだ、というか消えたと言った方が正しいだろうか。彼女が瞬きしている間に、いつの間にか顔を覆う部分がなくなっていたのだ。
最初、彼女はぽかんとした。自分の見ているものが信じられなかったのである。
それもそうだ。見たことがあるはずの鎧から出てきたのは、彼女の知っている人物ではなかった。
髪は黒に似ても似つかぬ鮮烈な色彩を放つ赤。
瞳もちょうど今足下に広がっている液体そっくりの、淡い燐光を放つかに錯覚できるかのような金色。
顔に痣はなく、シュナの知っている人よりも――おそらく、若いのではないか。
《お父様じゃない!》
彼女は悲鳴を上げた。胸の辺りが、おそらく心臓がズキンと痛い。こういうときの身体の反応は、人の時も、竜になっても同じらしい。
あの空を裂くような甲高い音、彼女が液体の中で見知らぬ誰かを呼んでいた時と同じ響きが鳴る。
しかし、鎧を少しだけ脱いで顔を露出させた男は、暴れて鳴き始めた竜に怯んだのは一瞬だけ、すぐに胸元から取り出した物を口に含み、息を吹き込んだ。
自分の鳴らしているものと同じ音が鳴って、彼女は思わず鳴くのを止めた。
音源の人物は今初めて見た相手だが、身近で吹き鳴らされたそれには確かに聞き覚えがある。
(この人だ。わたくしを呼んでいた人。わたくしが呼んだ人)
鋭く遠くに意思を届けるための音が、次第に小さく低くなり、やがてぽう、ぽう、と落ち着いた小さな響きになる。
(不思議。どうしてかしら。この音を聞いていると、静かな気持ちになるの)
まだ、ドキドキと心臓は早まったままではあるものの、叫ぶ気持ちは失せていた。
黒い瞳を真ん丸にして見ていると、小さな笛を口にしたまま、男が再び手を伸ばしてくる。やはり彼女の身体はすんすんとそれを嗅いだ。
今度は少し予測できていたから、水面に向かって頭が下がっても慌てることもなかったし、その後速やかに顔を上げることもできた。
《いい子だ。……そう。いい子だ……》
相手の鳴らす響きに乗せて、突如男の声が耳に届いた。
再び身体を緊張させた彼女だが、笛の音を聞いていると強張りも徐々に解けてくる。
ふう、ふう、と少し荒い鼻息を吐き出している彼女の顔に男の手が近づき、ぽん、と優しく当てられる。
《良かった。落ち着いてくれて》
(これは……この人の声なのかしら?)
なぜなぜなぜ。質問好きの彼女の頭の中にいくつもの疑問が浮かぶが、残念なことに今はそれをうまく人の言葉にもできなければ答えてくれる人もいない。
加えて、見知らぬ男が鼻先を撫でることでもう一つ問題が発生しつつあった。
(それ、むずむずする!)
しばらくわななきつつも耐えていた彼女だったが、とうとう我慢ができなくなった。慌てて首を引っ込め、口元を覆おうとするが、四つ足ではうまくいかない。少しした後、くしゅん! とその場にちょっと間抜けな音が響き渡った。
……どうやら竜もくしゃみはするらしい。
(まだちょっとかゆいかも……)
どうにか鼻先を掻こうとしている彼女は、脚ではなく翼の方を折り曲げて顔を押し当てればどうにかうまくいきそうだと発見し、実践してからほっと一息吐く。
きょとんとした顔になった鎧の男が、一連の流れが終わると思わずといった調子で笑い声を上げた。
その拍子に笛が落ちるが、どうやら胸元に紐で垂らしているらしく、黄金色の海には落ちずに済む。
「そうか、くすぐったかったよな。ごめんよ」
ひとしきり笑い声を上げてから、男はそう言った。
その前まで、緊張した厳しい顔をしていたから、余計にだろうか。
それとも父が、どこか憂いと陰りを孕んだ笑みばかり見せる人だったからだろうか。
彼女は初めて見た若い男の屈託のない笑顔に、食い入るように見入っていたのだった。
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