退屈の突破口

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来栖が既婚者だとわかってからは、彼を眺める度に胸が痛んで苦しくなり、避けるように顔を逸らしていた。しかし、それでも習慣になっている図書館通いは簡単にやめられず、嫌でも彼のいる場所へ自ら踏み入るのだ。 夢想もうまく行かず、表紙も重いまま開けず、幾日か経った頃、美和子は冬休みに入った。それでも美和子は図書館に通う。冬休みなんてものは学生だけの事情であり、両親は変わらず仕事で不在だし、平日の帰る場所が図書館であることに変わりはない。 来栖の件ですっかり悲劇のヒロイン気取りになった美和子は、無意識に恋愛小説をよく手に取るようになっていた。自宅で読むと堪らなく悲しくなる時があるので、図書館で少しずつ読むのは恋愛小説、借りて帰るのはミステリー小説と決めていた。 ホラー小説で名を馳せた作家が恋愛小説に挑戦した、ということでずいぶん前に話題になった作品を、ようやく読み終えることができた。片想いのまま亡くなった女性の地縛霊と、死のうとする青年との異色のラブストーリーだったが、ホラー小説を得意としているだけあって恐ろしさと不気味さがうまく書かれており、その恐怖がリアルな分二人の切なさに繋がった。要は非情に満足した作品だったのだ。 美和子は、作品を気に入ると装丁を撫で回して余韻に浸る癖がある。作家はもちろん、この作品を世に生み出す為に関わった全ての人に感謝を伝えたい余り、気持ちが高ぶって発生する奇行だった。 (あぁ~っ、なんて素敵な恋愛なの…成仏して彼に会えなくなることに恐怖する地縛霊の女性と、女性と結ばれたい余り自殺しようとする健気な青年…でも、ラストが少し悲しすぎたわ) 滲む涙を拭って、もう一度裏表紙を捲る。発行年月日や重版された年月日を見る為だったのだが、その時に違和感に気がついた。 裏表紙の内側が、少し膨らんでいるような気がした。読んでいる内は全く気がつかなかったのだが、こうして両手で舐め回すように擦っていると、裏表紙の内側だけ若干であるが山なりになっている。 注意深く顔を寄せて目を凝らし、もう一度怖々とした指先で一通り撫でてみて、わかった。 (誰かが同じ色の紙を貼り付けているわ) 美和子は静かに憤慨した。本を痛めつけたり汚したりする人間は大嫌いだ。下手すればポイ捨てや落書きなんかより許せない。 一体何で貼り付けたのか。糊を使ったにしては波状にたわんでいるわけでもなく、両面テープを貼ったにしても指先への感触はずいぶん滑らかだ。 (こんなに綺麗に貼り付けられていたから、気付かなかった) 一度気付いてしまっては、とても気になる。 (もしかしたら、図書館の人が修繕とかの目的で貼り付けたのかも) そう考えると納得がいく。気持ちよく利用してもらう為には、古く破れた本を美しく見せる努力も必要だろう。あとは裏表紙をぱたんと閉じて、元の棚に返して、次に読む恋愛ものを吟味するだけだ。 しかし。 美和子はなかなか裏表紙を閉じられないでいる。 (…なんか、面白いことが起きる気がする) いつもの夢想する癖が、顔を覗かせていた。 たとえば、この紙を剥がすとべったり古い血がついていて、未解決の殺人事件に巻き込まれるかもしれない。 たとえば、この下には魔法陣が描かれていて、魔法使いの仲間入りをするかもしれない。 この、ぴっちり綺麗に張り付けられた紙の下に、何が隠されているのか、気になって仕方がない。しかし借りた本を勝手に切りつけるわけにもいかない。 (そうだ、司書の方に聞いてみよう) 司書に聞いてみて、これは修繕したものですよ、と答えが返ってくれば、この本は退屈で平凡な日常に帰っていく。何だろう?と司書も知らない素振りを見せたら、これは悪質な悪戯か、ファンタジーの入り口になるかもしれない。 美和子の内側は興奮で火照っていた。こうなっては居てもたってもいられない。今すぐに確認しないと、体のどこかから爆発して、バラバラになってしまいそうだった。この日常の最中から逃げ出すような足取りで、カウンターに向かう。 が、辿り着くより先に、棚を曲がったところで来栖と鉢合わせたのである。 「あっ」 「ああ、すみません」 彼はぱっと両手を差し出して、たじろいだ美和子の肩を掴んだ。心臓が飛び出るかと思ったが、それを阻むかのように、セクハラ!と来栖の背後から可愛らしい声が上がった。 来栖の両手があっさり離れた。 「ごめんなさい」 彼は申し訳なさそうに笑う。その後ろから、黒髪の長い少女が顔を出した。少女といっても美和子と歳は変わらないだろう。足が長くて目がぱっちりで、見てすぐに来栖の娘だとわかった。 美和子が一歩引く。来栖は、ぶつかりそうになった時に落とされた本を拾い、とても優しい手つきで撫でた。 「荒岡竜太郎。渋いのを読まれますね。これから借りられるのですか?」 差し出された本を受け取り、さっさと頷いてその場から逃げようと考えた。実際、美和子の両手はすぐに本を受け取ったのだ。しかし、足はその場から離れるのを嫌がった。 退屈の出口がすぐそこにあるかもしれないのに、そのドアを素通りすることなんて、できない。美和子はそういう年頃だった。 「あの、」 目を合わせないまま切り出したので、来栖がどんな顔をしていたのかわからない。 「あの、ここ、紙が、貼られてて」 うまく説明できない。舌が回らない。慌てて震える手でページを繰り、裏表紙の内側を開いて見せた。来栖と、来栖の娘らしい少女が顔を寄せて、ああ、と頷いた。 「本当ですね。ずいぶん丁寧に貼られているけど、一体誰がこんなことを」 「タカさん、ここから剥がせそうよ」 美少女がつまらなさそうな声音で、端っこのわずかな捲れを指した。あれだけ夢中で撫で回していた美和子ですら気がつかなかったので、驚いた。 「剥がしていいのかな」 来栖が戸惑う様を彼女は疎ましそうに睨み付けて、遠慮のない手を伸ばしてバリッと勢いよく剥がした。あっ!という声をなんとか呑み込んだ美和子と来栖は、剥がされた紙の下から出てきた正方形の紙を見た。 十五センチ四方くらいの、クラフト紙の付箋である。隠蔽の為の紙の下でずっと見つけてもらえるのを待っていたようで、行儀よく綺麗な姿勢で、ぴったりくっついていた。 『36番棚で会いましょう。』 付箋にはそう書かれている。
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