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退屈の突破口
美和子は本が好きだ。
両親が共働きで、祖父母の家によく預けられていた幼少期、田舎すぎて図書館も遠いその地には、ワゴンいっぱいに本を詰め込んだ移動図書館なるものが定期的に訪れていた。小さなバスのような形だが、おとぎ話に出てくるようにいろんな窓やドアが開いて、中は図書館をそのままぎゅっと凝縮したようであった。遊び相手と言えば、祖父母宅の近くに住んでいた小さな男の子くらいでつまらなかった美和子は、その移動図書館と夕方のアニメだけを楽しみに生きていたのだ。
本の世界は、無限大だ。本の中でなら人間は空も飛べるし、小学生でも世界を救えるし、花だって歌うのだ。現実は小説より奇なり、なんて言葉も知っているが、そんなことはないと美和子は考えている。現実とはいつだって退屈だ。
祖父母はとっくに亡くなったので、美和子はもう移動図書館を待ち焦がれることがない。桜が満開の時に無事に公立高校に入学して、今は下校途中に大きな公立図書館に立ち寄ることだってできる。両親は今も共働きで家には誰もいないし、夕方のアニメ枠もなくなってしまった。美和子にとって自宅は週末の居場所、平日の帰る場所は公立図書館になっている。
最初は館内の本を全て読破しよう、なんて世間知らず甚だしい目標を持って通い出したのだが、そんなの現実的に不可能だと気がついてからは、別の楽しみを見つけた。
「来栖さーん」
どこからか聞こえた、か細い女性の声。美和子は聞き付けて、本棚の陰からカウンターへ熱視線を送る。
来栖貴明、という手書きの名札を胸ポケットに差した男性が、にこやかな笑みを浮かべて出てきた。歳は美和子の親と同じくらい、おそらくは四十後半から五十手前といったところか。足も腕も睫毛も長くて、歳を取る前には近辺で評判の美少年だった過去を思わせる。薄い唇を上品に引いて微笑む姿はまるで英国紳士。今まで男性にときめきなど抱いたことのなかった美和子にとって、彼は初恋の相手とも言えた。
しかし、別に来栖と恋人になりたいわけではない。歳が離れすぎているし、ろくに話したこともないのだ。それに、この図書館が平日でも土日でも女性の利用者が多い理由が彼にあると、美和子だって知っている。高嶺の花は眺めているだけでいい。
今、来栖を読んだのだって、本を借りて帰ろうとした主婦らしい女性だ。カウンターには別の司書もいるのに、奥の部屋で作業している来栖の姿が見えて、わざわざ声をかけたのだろう。
「こんにちは、長尾さん。こないだ借りて帰った短編集、もう読み終わったんですか?」
来栖は声もいい。低すぎず、高すぎず、まるで音楽のようである。そして、ホストかという程に利用者の顔と名前をよく覚えていて、気さくに話しかけてくれるのも、人気の理由である。
主婦は背中しか見えなかったが、喜んでいるのは明らかだった。
(ここは神聖な図書館なのよ。男日照りはホストクラブか出会い系でもしてなさいよ)
別に来栖と誰かが親しくしているのは構わないが、本が好きでもないのに来栖目当てにずかずか踏みいる女は嫌いだった。来栖きっかけに本が好きになった、なんて甲高い声ですり寄る女は、八割は嘘だと思っている。
眉間に皺を寄せて険悪な雰囲気を醸し出し、周囲から奇異の目に晒されているとも気付かず、カウンターを睨み続ける。その熱意と殺意が伝わったのか、ふいに来栖がこちらを向き、目がばっちり合った。
にっこり笑い、会釈をする。
美和子は顔が熱くなり、飛び出ようとする心臓を落とさないように気を付けながら、そっと顔を引っ込める。主婦への殺意なんてすっかり忘れて、にやけた顔で帰宅することにした。ちなみに彼女は、自分も来栖目当ての浮わついた女だと誤解されない為に、わざと来栖のいない時にカウンターへ走るのだ。
帰り道、借りた本を抱き締めて、温かい息を吐く。
(来栖さん…素敵な人。同じ年代に生まれたかった)
同年代であれば恋に堕ちていたに違いない。恋愛小説が特に好きな美和子にとって、溺れるような甘く危険な恋とは、憧れてやまない美しい舞台だった。
今日も借りた本を読み進めた後、ベッドに入り、いろんな夢想をする。明日起きたら宇宙人に地球が征服されているかもしれない。スーツの人が何人かやってきて、実はあなたは皇族の一員なのですと言われるかもしれない。妖精が見えるかもしれない。魔法が使えるようになるかもしれない。
来栖と偶然どこかでばったり会って、親しくなるかもしれない。
寝る前の夢想が彼女にとって一番の生き甲斐であった。本の世界と同様、夢想だって制約がないのだ。
しかし目が覚めればいつだって、退屈な現実が広がって、ゆるゆる流れる。
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