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4
周囲を用心もせず、マリアは走り出す。
そんな彼女の足には靴が履かれていない、すでに足の裏は真っ黒に汚れている。彼女は勢いよく一階に存在するその内の一室に入るが、そこには誰も居なかった。
「いない」
落胆する彼女とは反対に僕は安堵する。誰も居なくてとてもいい、居ては困る。
彼女がいないと落胆するという事は、普段ここに誰か居るのだろうか。けれど、その人物が僕たちにとって良いのか、悪いのか、この少女からは結論付けられない。
僕は今すぐマリアを放っておいて速く走って逃げたいのだが、この幼児退行した少女の機嫌を損ねて大泣きされては困る。ニックも探さなければいけない。
「ここには、誰がいるの? 君は知ってる?」
マリアはとても困ったような顔を浮かべるので僕は慌てて止める。
「いいよ。僕も混乱してるから。外に出よう」
「危ないよ」
と、マリアは大きな赤い瞳を不安げに揺らしながら呟く。
「そうだね」
それなりのフォローを入れた時、マリアは初めて怯えの顔をみせた。その視線の先は僕ではない。僕の先の何かを見ている。
マリアは小さく悲鳴を上げ、弾かれたかのように走り出してしまった。
僕も彼女を追いかけようと思ったが、ふと後ろから足音が聞こえて総毛立った。重たいゆっくりとした足音は、そしてピタリとやんだ。
「ニック?」
そうであって欲しかった。僕は恐る恐る振り返って、そして何故もっと早く逃げなかったのだろうと酷く後悔した。
そこにいたのは、決して僕の友達なんかではなかった。僕より遥かに大きい男、けして筋肉質ではないその肥満体は身長こそないのに恐怖と重なって益々彼を巨人に見せている。
大きな汚れた手には切れ味の悪そうな錆れた大きな包丁。黒の長靴に汚れて血の色が判断つかないエプロン。
肉屋。豚や牛を解体するような作業員――……そんな言葉が最初に出て来た。
男の目は焦点が合っていない、トロンとした優しい目だがその瞳はどこか違う所を映している。
男はいたずらっ子のように繰り返し笑いながら、それでいて一体誰に言っているのだろう。あぶない、あぶないと何度もその単語を繰り返し、そして贅肉を揺らしながらこちらに向かってくる。夢うつつな幸せそうな顔で、一体何を考えているのだろう。
死ぬ。
殺される。
直感した。
どこに逃げればいいのかも分からないのに僕は駆け出していた。マリアが怯えて逃げ出したのもこの男を見たからだ。
あれが吸血鬼? 僕には狂った殺人鬼のようにしか見えない。吸血鬼が包丁……多分、あれは肉切り包丁だ――を何故持つ必要があるのだろうか?
混乱する僕を馬鹿にするかのように、クスクスと笑い声が後ろから追ってくる。一体何が面白いのか。僕が混乱しているのがよほど滑稽なのか、それともこの状況に楽しんでいるのか。
あまりの気持ち悪さに怒鳴り散らしたくなった。いや、泣き叫びたくも思うのはこの短時間で精神が尋常じゃなく削られているからだろう。
それでもがむしゃらに走っていると不意に腕を誰かに掴まれ、そして強引に部屋に引きずり込まれた。
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