第四章

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 4  それは一瞬の出来事だった。  恐怖のあまり笑いそうになる。今、自分がどんな顔をし、彼女を見ているのか分からない。男の一撃はマリアの肩に直撃し、彼女は悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。  飛び込んできたマリアの表情は笑顔からそして不意に背後からきた強烈な痛みに驚き、そして苦痛に歪み、大きな瞳から涙が零れる、そんな一連の動きを僕は目の前で見るしかなかった。  ドサリと彼女が倒れたあと悲鳴は2つあがった。痛みに泣き叫ぶマリアと、彼女を間違って傷つけてしまった大きな男。  二人は同じように困惑しながら「どうして。どうして」と同じ台詞を吐く、片方は耐え難い痛みに、片方は予期せぬ出来事に。僕は素早くマリアの手をとり、逃げようと促したが彼女は痛いと叫ぶだけで動こうともしない。  大男は頭を抑え唸り、不可解な言葉を何度も何度も繰り返している。 「マリア!」  僕の背後で銃声が一つ、緊張した空気を裂く。  その音に男は今度こそパニックに陥ったのだろう。ヨタヨタと後退し、そして弾けたように森の中を走りだしてしまう。 「マリア!」  泣き叫ぶマリアの白い肌が血で赤に染まっていく。  照り付ける夏の日差しが彼女の肌を焼いていく。日光に弱く普段から外に出ていないであろうその肌はより敏感に太陽の日差しを受け取ってしまう。 「マリア!」  こう何度も彼女を呼ぶのは、彼女を宥める為か、自分か落ち着きたいのか分からない。名前を幾度となく呼びながら、涙で歪む視界の中僕は止血を試みる。  Tシャツの裾を引きちぎろうとするが、ひ弱な僕の力では手が赤くなるだけでシャツは裂けそうにない。恐怖もあるのだろう、手も、足もこんなに情けなく震えている。 「パパ」  マリアは泣きながらようやく一つの言葉を発した。涙で、汗で、鼻水でグシャグシャの顔のまま彼女は一点を見つける。  その先には、ケイが足止めしていた筈の中年の男が立っていた。  呼吸が荒いのは、撃たれたのだろう。足を引きずりながら僕たちに近寄る。土で汚れた手には、しっかりとノコギリが握られている。  彼は僕とマリアを見比べ、そして思ったのだろう。僕が彼女をここまで傷つけたのだろうと。  雄叫びが、森に響く。  相当怒り狂っているのだろう、目は血走り、歯を食い縛りすぎたのか、口からは血が、ツバと共に吐き出される。  僕の隣でマリアが怯えた目で父親を見ている。けれど、彼は気が付かない。もはや言語など無くしたかのように男は叫び、怒りを露わに突進し――……。  再度、銃声が響いた。 「ケイ?」  一拍遅れて、どうと男が前のめりに倒れる。横から頭を撃たれたらしく破壊された脳がボタボタと散っていく。  吐き気を堪えながらも音がした方を見る。  そこにいたのはケイではなくFBIのジャケットを着た男だった。当然といえば当然だが、男はこの惨状の中一つも動揺も、恐怖も見せることなく「見つけた。救護班を」と僕たちを見据えたまま、おそらく後ろに仲間がいるのだろう声をかける。  男は緩やかな斜面にでも身軽におり、僕とマリアの元にくる。  ケイと同じような緑目の男は、負傷でもしたのか片目は眼帯に覆われている。そして、この白髪は――けれど、うっすら茶色が見えるあたりマリアと同じではないのだろう。素人ながらも現実逃避としてそんな余計な事を考える。 「あなたが……。ケイが呼んだ……?」  ケイは確か助けを呼んでくると言っていたし、拳銃で場所を知らせもしていた。だが、男は一瞬だけ困ったような顔をし、その後すぐに「あぁ、それが俺だ。……ノア・アッシュホードだ」と付け加えた。  あの躊躇いは、どういう意味だろうか……。それに同じアッシュホードという事は身内なのだろうか、と考えあぐねている僕をよそに、その男は意識の無いマリアの脈を確認している。  この短時間でも彼女の出血は酷かった。黄色の汚れたシャツが見る見るうちに赤く汚れ、そして黒ずんでいく。  すぐに救護班が駆けつけ、男の代わりにマリアの様態を見ている。彼女は助かるのだろうかと顔を窺っているが、どうも分からない。 「あの子は……、ケイはいるか?」  不意に声をかけられ僕の意識は、マリアからアッシュホードさんに移った。それは僕も聞きたい、あの男が生きているのにケイがいないという事は……。 「います」  息を切らせながらケイが駆けてくる。  服はボロボロ、髪はボサボサだったが、どこも怪我はしていないようだった。アッシュホードさんは、すぐケイに駆け寄り何かを話した後、他の救護班を呼んでいる。 「どこか痛みは?」 「無いです。……マリアは?」  救護班に声をかけられながら、僕は動かないマリアを見る。担架を持ってきて運ぼうとしているが、山道に四苦八苦しているようだった。 「死んだ、の……?」  僕の問いにきっと何か答えてくれたのだろう。けれど、周囲の音が、声がすべて他人ごとに、まるで違う世界のようにぼんやりと霞んで、そして視界も徐々に暗くなっていく。  気絶するんだ、とボクは知る。  狭い視界の中、アッシュホードという姓を持つ彼、彼女の緑色の目が僕を捉えていた。
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