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チョコレートドーナツと幕開け
「こちらでお召し上がりになりますか?」
「いえ、持ち帰りで」
大学生っぽい綺麗なお姉さんが、慣れた手付きでドーナツを袋にしまっていく。
駅前のパン屋にあるこの150円のチョコレートドーナツは、甘ったるくてあまり好きじゃない。
でも、夏海は「その甘さが良いんじゃない」とよくそれを買っていた。
僕はそれを内心すごい好みだなあと思いながらも、時折チョコレートドーナツを買って帰り、夏海の目が輝くのを見ていた。それが楽しかった。
夏海が死んでから、今日で100日が経った。
彼女は「夏海」という名前を呈したように、いつも明るかった。僕が就職に失敗した時も、鬱になりかけて会社に通えなくなった時も、暗くて陰気な僕を引っ張っていく底力が夏海にはあった。一人暮らしの僕の部屋に上がり込んでは、部屋を片付けたり、ごはんを作ったり、優しく励ましたりしてくれた。
僕は夏海のそんな明るさが大好きだった。夏海も、僕の暗さを彼女なりに愛してくれていたように思う。
例えるなら、僕が陰。彼女は陽。二人のうちどちらかが自殺するならば、必ず僕のはずだったのだ。なのに世界はたまにいたずらをする。
夏海のことを考えないようにしていた時期もあったが、最近はもう無理だと開き直っている。最近出来たコンビニをうろつきながら、わざとらしく呟いた。
「夏海、牛乳とコーヒー、どっちがいいかな?」
結局飲むのは僕のくせに。
仏壇に牛乳とチョコレートドーナツをちょっと供え、手を合わせてから、僕も少し食べた。うげ。相変わらず悪魔的な甘さがする。デビルズチョコレートドーナツ、って名前の方がいいんじゃないか。牛乳で一気に流し込む。
一人暮らしだった部屋は二人暮らしになり、100日前、また一人暮らしに戻った。
新しい恋人なんて一ミリも頭には浮かばない。デートは100日していない。ようやくこの頃になって冷静に仕事が出来るようになった。50日前くらいは、頭がぼやけたまま緩慢にゲームをクリアするように生きていたのだ。
「夏海、ドーナツ美味しい?」
バカバカしいと笑われても構わない。僕は夏海に話しかけることを決して止めない。そうしないと、僕から夏海がどんどん抜け落ちてしまうようで怖い。
「そりゃ美味しいよ」
「良かった…」
あれ?
ついに幻聴まで聞こえたか。いよいよ終わりだな、と自嘲しつつドーナツを食べ終えた皿を片付けるために立ち上がると、ペシッと何かが頬にアタックしてきた。
「わ、何、何これ」
灰色のモフモフ。ちょっと埋もれた目。コウテイペンギン。
「何これって、覚えてないの?ぺんちゃんでしょ、ぺんちゃん」
「………」
「あんたの大好きな夏海ちゃんが可愛がってたペンギンのぬいぐるみでしょ!」
「いや、それは覚えてるんだけど。っていうか誰?」
必死に頭を巡らせる。こんな、陳腐な小説みたいなことってありえるか?いや、ありえない。ということは、つまり、僕の頭がイカれたということだ。
「嫌だ、怖すぎる、無理無理」
僕はまだまともでいたい!夏海の分も生きるんだ!とゴミ箱にぺんちゃんを捨てようとすると、ぺんちゃんが短い手足をぴよぴよと跳ねさせて抵抗していた。
「私だってば!気付けよ!」
「…夏海?」
イライラすると男口調になるのが、まるで夏海みたい。
思わず手の力が抜ける。
「今日で、私が死んで100日でしょ?100日経ったら、1日だけ、大切な1人にだけ、会ってもいいんだって」
「…そんなこと出来るの?」
「今出来てるでしょ!よくわかんないけどルールみたいなもんなのよ、多分」
「じゃあなんで体がぺんちゃんなの?」
「知らない。死体じゃ無理だからかな?」
「そんな…」
疑いながらも、僕はありえないこの状況を少しずつ受け入れ始めていた。妄想にしては設定が細かすぎるし、ぺんちゃんの喋り方や声は寸分違わず夏海のそれだ。何より…これが例え妄想でも、僕は一日でも長く夏海といたい。
「まだ頭が追い付かないけど、とりあえず、今日一日、よろしく」
「うん!やったねー、卓也とデート!」
こうして、太陽のような夏海の霊と、一日限定デートが始まった。
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