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あと一人なんだよ
「俺も先輩みたいになりたいっすよ」
アルコールが回ってきたのか、後輩の新藤は紅潮させた顔で言った。夜十時を回った居酒屋の賑わいでもよく通る大きな声だった。
「やめておけ」
「俺みたいになるな、ですか?」
「ああ」
「くぅ~! それもかっこいい!」
呑気に嬌声を上げて、またぐびぐびとビールを喉に流し込んでいった。仰いで飲み干すものだから、新藤の大きな喉仏が上下に動く様を見せつけられる。
別の生き物みたいで気持ち悪い。どうして女はこんな突起物が好きなのだろう、と自分の喉仏を優しくなでた。
新藤は「ぷあ~!」と気持ちよさそうに、空になったジョッキを置いた。こいつの興奮しきった様子も、月末木曜日の居酒屋では日常の一風景で、他の客は気にも留めない。紫煙が熱気と混じり、あたりに充満して、ぐつぐつと煮立ったような空気が体の熱量にも作用する。生物に元から備わっている闘争本能が刺激される、気がする。冷静に自分を分析しているつもりでも、本能には逆らえない興奮を見るとき、人間は猿から進化していないのだと思う。
「あと一人なんだよ」
「え? 何ですか?」
新藤は酩酊してきたのか、耳が遠くなってきたようだ。
「百人斬り」
「ああ、先輩はモテますからねえ」
「努力してるからな」
「いやいやあ、その顔じゃなきゃ努力しても無駄ですもん」
むだむだ、と目も開かなくなってきた顔で言う。
「そんなことはないさ。顔の良さはそうそう関係ない。女に抱かれたいと思わせれば良いんだから」
「それに顔が必要だって話ですよね?」
「ある程度の清潔感は欠かせないな」
「ほら」
責めるように言う新藤に呆れて、俺は何度目か分からないレクチャーをしてやることにした。
「顔の良し悪しはあるだろうが、小奇麗にしておけば、後は相性の問題だ。女が俺たちに対して思うのはまず『異性として見れるかどうか』だ。男がどんな女でも女として見るのとは違って、女は人間を三つに分けている」
三本、指を立てた。
「女、男、どうでも良い。この三つだ」
「へえ」と新藤は覇気のない返事。
「俺たちはまず『どうでも良い』に分類されないようにしないといけない。そのために、男として見られるための清潔感、有能感、頼り甲斐を印象として与えてやるんだ」
「そんなアバウトな」
「アバウトで良いんだ。女は雰囲気に流される。だが、それは簡単に流されるということじゃない」
「というと」
「それはだな」
ここは大事なところだぞ、と職場で教える時のように、たっぷりとタメを作る。居酒屋の喧騒もどこか遠くなってきた気がする。
「雰囲気と感情というあいまいな軸で判断しているからこそ、その塩梅を見極めるために計算が必要なんだ」
「塩梅っすか」
「そうだ。モテる男はみんなこれを熟知している。自分を受け入れてもらおうと曝け出すのではない、女が抱かれたい雰囲気を出すために尽力をするんだ」
ひとしきり喋って喉が渇き、ビールで潤す。もうぬるい。さあ続きだ。
「だからな……」
「んなもんじゃないんすよっ!」
突然屹立した新藤が店中に響き渡る声で言った。
他の客もさすがに無視するわけにもいかなくなったのか、目を丸くしてラグビー部出身の大きな背中を見つめている。新藤は声だけじゃなくて図体も大きい。
俺はそんな聳え立つ新藤を、まあまあと宥めすかして座らせる。
「どうしたんだよいきなり」
「計算して、女を、落とすってのはぁ」
呂律が怪しくなってきた。そろそろ眠い時の前兆だ。酒に弱い新藤は遊び疲れた子供みたいにいきなり眠る。
「落とすってのは」
「なんかぁ、なんか違うんす」
「なんかって、何だよ」
「自分を、知って、もらって。んでぇ、それでも一緒にいたいって、言ってくれる、っう、人がぁ、運命なんすよ」
「運命ねえ」
俺は苦笑いをせずにはいられなかった。運命の相手と結ばれたいと思っているのは乙女ばかりだと思っていたが、ここにも一人いたようだ。公式を組み立てて、綿密な計画の上で女を抱いてきた俺は、そんなことは忘れてしまった。
だが、大概の人間はそうだろう。結婚相手が運命の人だと、心の底から信じている人間がどれだけいるのだろうか。時期が違えば、場所が違えば、出会った順番が違えば、ボタンの掛け違いの一つで結婚相手は変わるのだ。だからこそ結婚は最高の妥協点であり、それを運命だと思ってやり過ごすに過ぎない。
「あみゅみゃみゅみゃ」
「寝言らしい寝言だな」
新藤は食い散らかした皿を器用にずらし、机に突っ伏して寝ていた。いつも通りのことだ。俺がタクシーを呼んで会計を済ませて、翌日になったら快調そうな新藤の挨拶に二日酔いの頭を揺らされる。
運命の相手ねえ。
もう少しだけ飲んで帰ろうとビールを追加注文した。
「あと一人なんだよ」
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