海まであと五分

1/3
17人が本棚に入れています
本棚に追加
/3ページ

海まであと五分

 生まれた時からずっと、海のそばに住んでいた。だから、海は特別な場所でもなければリゾートでもない。ただそこにあるもの、だった。  飽きる感覚もないぐらいになじんだその景色とは違うものが見たくなって、進学をきっかけに生まれ育った土地を離れてからは、ずっと海のない街を選んで住んでいた。  潮の香りもしない。海水の湿気も届かない。そんな街は空気みたいに軽くて快適で、でもどこか落ち着かない。  いつかそんなつまらないことを思うようになって、結局また海の近くに住むようになった。一美とおれと、一年中、湿気と潮の匂いを含んだ空気にさらされながら。  つり革を持ち隣に立っていた女性が、次の停車駅で降りるべく小さな声ですみませんと言いながら、おれの背後をすり抜けて行った。開いたドアから車外へ突き出た女性のハイヒールがホームへ着地するのとほぼ同時に、風がさぁっと車内に入り込み、その人のスカートをふわりと膨らませた。条件反射のように左手でスカートを押さえ、その手のほう、だから左方斜め後ろを伏し目がちにちらりと見やった時の女性の表情が妙に色っぽかった。頬には薄いピンク色が差し、上に向かってカーブした唇の端には降ってわいたアクシデントを恥じ入るような淡い微笑が浮かんでいる。  それによく似た色っぽい顔を、つい最近どこかで見た。  いつ。どこだ。  つり革を持ったまま、考える。  思い出した。  先週末、ちょうど一週間前の土曜の朝だ。  目覚まし時計のアラームが鳴るよりも先に目が覚め、ぼんやりした頭のまま、窓の方を向いてこちらに背を向けて寝ている一美の肩のあたりを見ていた。痩せている印象はあるけど、肩幅は結構あるんだなとか、もうそろそろ厚手のパジャマを出さなきゃいけないかななんて思っていた時、寝返りをうちこちらを向いたヤツが薄目を開けた。 「……もう、起きる時間?」 「まだ。朝飯作るから寝てていいぞ」  一美はおれよりも出勤する時間が遅く、平日はだいたい朝飯を作ってくれる。だからというわけじゃないけど、なんとなく土日はおれが台所に立つことにしている。とは言ってもコーンフレークとヨーグルトだけだったり、ご飯とみそ汁に目玉焼きの日もあったり、適当かついい加減で、それは二人とも大体同じ。  その日は珍しく、前夜ベッドに入ってから「明日の朝はホットサンドが食べたいなぁ」とヤツが言った。「じゃあ、覚えてたら作る」なんて答えたけど、ちゃんと覚えていた。  寝る前に脱いでベッドの下に放ったままだったTシャツをとり、袖に通したついでに両腕を天井に向かってぐーっと伸ばしたその時、わき腹にヤツの手が触れて、 「なぁ、したい」  はぁ? と聞き返すよりも先に腕を取られ、「こっち」とさっきはい出したばかりのベッドの中へ連れ戻された。  この男は最近何を考えているのか、おれを受け入れるくせに、何度聞いても「いく」とも言わないで、そろそろかなと思う頃合いになるとおれの名前を呼び付けそっちへ顔を向けさせると、満足そうに唇を合わせ舌をつついたりつつかせたりしているうちに、おれの手の中に温かいものを放出する。この日もそうだった。 「一緒にいくなんて、女じゃあるまいし。それぞれが気持ち良かったらそれでいいじゃん。好きだからこんなことしてるんだし」 「それはそうだけど、お前のいく時の顔が見たかったんだっつーの」 「じゃあ目、開けてれば。俺は、目は閉じる派だけど」  それだけ言うとくくっと笑い、湿った唇でおれの唇を端から端まで包み込んでいく。可愛げのないことばかり言うくせに、一美の唇は口に含むとほろほろと崩れ落ちてしまいそうに柔らかく、甘い熱を孕んでいる。それよりもやや硬さのある舌で、おれの口の中をまるで機嫌をうかがうように舐めたりつついてきたり、いじらしいことをする。そんなふうだから、唇を合わせているとつい、まぶたを閉じてしまう。 「なぁ……、」 「ん?」 「いかないの? 卓郎は」 「いくよ」 「俺の中、こないの?」 「い、く」 「ん……、」 「……」 「まってる」  その間たぶん一、二分。言葉を発する合間に唇を重ねるのか、キスする間に時折、唇を離して言葉にして伝えているのか。くっつきあった唇が、言葉を交わすために離れて、またお互いの唇が欲しくなって。それから、さっきの問いかけに応えて、また唇と舌を絡み合わせる。それを何度も繰り返している。こんな永久運動だったら、たぶん何も問題もなく一生続けていられる。この男とだったら、の話だけれど。  そんなことを思いながらようやく一美の唇を引き離し、乱れた前髪を指の先ではらい、額からまぶたに向かって唇をつけた時に、ヤツがフッと微笑んで見せた表情が、……たぶん、さっきの女性よりも色っぽかった。  メールの着信を知らせる振動に気づいて我に返り、あわててポケットから取り出して画面を見ると、一美からだった。ぼんやりしていたけれど、電車の窓からは降りる駅のホームがもう見えていた。ヤツからのメールには、「疲れたー。今日は先に寝る。ごめん」と書かれていた。  翌朝の食卓で一美が、「今日、ヒマだったら海に行こうよ」と言ってきた。テーブルのこっち側で「へ?」みたいな顔をしているおれを尻目に、「夕方の涼しい時間がいいけど、それだとゆっくりできないかなー」とか何とか、勝手に頭の中で今日の予定を組み立て始めている。 「八月の休みにさんざん泳ぎに行かないかって誘ってんのに『行かない』ばっかり言って、このタイミングで海かよ」 「今だったら、地元の人がいるぐらいで、観光客もいないっしょ。別に泳ぎたいわけじゃないから」  まぁ、それは何となくわかる気もする。 「いいけど。別にヒマだし」 「じゃ、決まりね。秋とか冬のさ、人のいない海のほうが俺、好きだな」  確かに男二人で海へ泳ぎに行っても、なぁ? ギャアギャア騒ぎたいわけでもないし、水着の女の子が見たいわけでもないし。  一美と出会ったのは、大学三年の時にバイトで雇ってもらったバーだった。おれより一か月ほど早くバイトを始めていた一美は、掃除の仕方やグラスの洗い方、マスターの機嫌が悪い時の対処の仕方なんかも丁寧に教えてくれた。そんなに口数は多くないけれど変な気を遣わせない親しみやすさがあって、ふわっとした茶髪交じりの柔らかそうな髪からは潮の香りとは違う、いい匂いがした。話していくうちに同じ大学に通う同期生だってことがわかり、学部が違うとはいえお互いの存在感の薄さを笑った。  一美と書いて、「かずみ」と読む自分の名前を彼は気に入っているのだと言った。名前を付けたのは母親で、その由来は「世界で一番美しい人だから、一美」。生まれたばかりのヤツを見て、小さな体を胸に抱いて、その時にその名前が浮かんだのよ、とおふくろさんは言ったという。ちょっと前まで写真家としてあちこち飛び回っていたおふくろさんと、一美の二人家族。父親の顔は知らないらしい。まずいことを聞いたかな、と思ったおれの心中を察してヤツは、「喪失感なんてまるでないよ。だって最初っから母親と俺しかいなかったから、うちはそういうやり方なんだなって」。  大学を卒業するタイミングでちょうどアパートの更新があり、引っ越そうかな、と話したら「付き合ってるんだし、一緒に住んじゃおうよ」と当たり前のことのように提案され、それまで住んでいた部屋から一駅分、海に近い今の家に落ち着いた。駅から徒歩約十分。十帖ぐらいのリビングダイニングキッチンにそれぞれの部屋と寝室。築年数は年齢の倍ほどあったけれど、海風にさらされる地域であることを痛感させられるような欠点が見当たらないだけでも申し分のない物件で、まだ社会人ともいえないような半人前の男二人の生活が当たり前のように始まった。それが二年前。今年、最初の更新を済ませた。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!