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「そろそろ帰ろっか」
不意に立ち上がり、ジーンズの尻についた砂をぱんぱんとはらいながら、ヤツがおれに向かって手を伸ばした。
「腹減った。何か、美味いもの作って」
お前なぁ。もうちょっとマシな言い方はないのかよ。
「いいじゃん。それより、早く立って」
ヤツの手がおれの腕を取る。来た時とは違い、手を繋いでというよりヤツがおれの少し後ろを、おれの手を握って歩いた。そんなことは今まで一度だってしたことがなくて、少しだけ不思議な感じがした。
「ここら辺に住み始めてから、いやなことや悲しいことがあった時とか、どうしようもない気分になった時は、一人で海に行くようになったんだ。最近はそうでもないけど、大学の時、卓郎に出会う前は一人でよく来てた。砂浜に座って眺めてるだけなんだけど、なんだろうね。いろんなものを捨てに来たかったのかな。晴れてる日でも曇ってる時でも、海はいつも変わらずに波があって。キラキラ光ってる時もあれば、じっと黙ってる時もあって。広くて大きくて」
おれは、足元を見ながらうん、うん、と頷いて一美の話を聞いていた。
「小さな頃から海のそばにいた卓郎は、そういう感覚はないかもしれないね」
そうかもな。
「俺、もう、しないよ」
背中で聞いていたヤツの声が、一瞬何を言っているのかわからなくて、立ち止まって振り向いた。ヤツはふわっとしたいつもの笑顔で、
「さっきの、お前の昔の話。もうさ、ここに置いて帰ろうよ。そしたら波がどこかへ運んで、いつか全部きれいさっぱり消してくれる。だから、卓郎ももう忘れて。俺も、もう聞かないから」
ずっと立ち止まったままでいるのも妙に照れくさくて、でも一美に何を言えばいいのかもすぐにはわからなくて、「おう」とだけ言ってヤツの手を取ったまま、また歩き出した。おれだって、一美が昔に好きだった人のことなんて知りたいとも思わない。そんなことよりも、ヤツが誰にも言わないままそっと海に捨てに来ていた気持ちの何分の一のかけらだけでも、粉々に砕いて、消してやることができたらと思う。
どちらからともなくお互いに、なんとなくそういう気分で、海岸にそって三駅分歩いて帰ることにした。ヤツはずっとおれの手を握っていた。夕暮れ近い空にぼうっと浮かんだ、黄色と橙色が混ざったような太陽を指さして、「ディタオレンジみたいできれいな色だなぁ」とヤツは声を弾ませた。
「そういえば広田先生、覚えてる? 今週、店に来たんだ」
「広田先生って、あの広田?」
「そう。何年ぶりかで海が見たくなったんだって。相変わらず口髭が似合ってた」
文学部にいたヤツの恩師でもある広田先生は、趣味で絵を描いていた。母親の影響で写真や絵が好きだった一美は、講義とは別にもっぱら趣味の話をするために一時、先生の研究室へ足しげく通っていたことがあった。
「卓郎、帰ったらあれ聴こうよ。スノウ・パトロール」
スノウ・パトロー……、あぁ。男女がシェアハウスする、なんとかいうテレビ番組で流れてたな。
「懐かしいな。でもおれはあれがいいな。ウェザー・リポート。できれば『ヘヴィ・ウェザー』」
最初に一美と知り合ったバーで、なぜかいつもウェザー・リポートの曲が流れていて、「バーっていうと、オシャレなジャズが聴こえてくるイメージなんですけど」と笑う一美にマスターは、「俺はフュージョンが好きなんだ」と譲らなかった。マスターは若い頃にベースを弾いていたらしく、常連さんの中には、大学のジャズ研究会でマスターと一緒にバンドを組んでいた頃の思い出話を聞かせてくれる人もいた。
「『ヘヴィ・ウェザー』って、一曲目にいかにも天気予報のバックで流れてるような曲が入ってるアレ?」
「そう」
「ジャコ・パスなんとかって人がベース弾いてるヤツだっけ?」
「そうだよ」
左手をきゅっとゲンコツにして口元に持っていき、ぷっと笑う。それはヤツのクセだ。
「卓郎は相変わらずで何より」
「おう」
内側から施錠し、さっきポケットから取り出した鍵を玄関ドアのフックへ引っ掛けていると、靴を脱ぎながらヤツが「早く冬にならないかな」と、まるで歌でも口ずさむように言った。こいつの口から冬が好きだなんて言葉、かつて一度も聞いたことがないんだけどな。
「寒いの、好きだっけ?」
「別に」
……なんだよ。
「でもあったかいじゃん。こうしてると」
サンダルを脱いだばかりのおれの素足をわざと踏みつけて、ヤツがおれの背中に腕を回した。おれがやり返すと、今度はその腕をおれの首に巻き付け、冷たくなったおれの頬に額をくっつけると小さな声で「あったかいよ」とつぶやいた。
さっき海で、腹が減ったとヤツは言ったけど、帰ってからおれたちはメシも食わずビールも飲まず、音楽を鳴らすこともしないでまっすぐにベッドへ向かい、重なり合った。いつものようにどうでもいい話をしながら、いつもとは違う交わり方をした。ヤツはガラにもなくおれに向かって何度も、好きだ、と言った。熱くなったままの体を何度も抱いた。
「俺さ、冬の海も結構好きだよ」
「おれはいやだ。くそ寒い」
「だろうね。でもさ、くそ寒い日にマフラーをぐるぐる巻きにして海を見るのもいいじゃん」
四年のクリスマスの時だったかな。おれたちが付き合い始めて間もない頃で、ケーキが食いたいというヤツと大学の近くで待ち合わせた時に、濃紺のダッフルコートに白いニット、赤いチェックのマフラーを合わせてきた一美のコーディネートに惚れ惚れしたことがあった。こっちが照れるぐらい似合っていて、でもそれを素直に口にはできなくて、「リセの学生じゃねぇんだから、その恰好」とか何とか憎まれ口を叩いた気がする。
今年の冬は、あのマフラーをぐるぐる巻きにして、今日みたいに海岸線を歩くんだろうな。片手はダッフルのポケットに突っ込んで、もう片方をさっきみたいに繋いで。でも、くそ寒い日は歩くよりも電車のほうがいい。駅に着いて、改札を出て、あっという間に青から赤に変わる信号のある横断歩道を渡ったら、海まではあと五分もあれば行けるから。
end
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