海まであと五分

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 休みの朝をだらだらと過ごし、夕方になって腹が減る頃に帰ってくればいいか、ぐらいの気軽さでおれたちは海へ出かけることにした。駅まで出てしまえば、電車で三駅。歩いて行くこともできるけれど、今日の日差しはやけに眩しかった。電車の窓からキラキラ輝く海を、二十五歳にもなる男二人が並んで目を細めて眺めていた。  つくづく思うけれど、雨の湿気と海の湿気は違う。秋に降る雨は特に好きじゃない。梅雨時の雨はそれはもう受け入れるしかないけれど、暑かった夏が終わってせっかくの過ごしやすい時季なのに長雨で幾日も雨が降ったり、曇天が続いたりするのは何だかもったいない気がする。あ、曇天はいいか。曇り空は昔から好きなんだ。  高校時代、男ばかりの教室でなぜか窓際の席に当たる機会が多く、授業中にぼんやりと空を眺めていることが多かった。記憶の中にある空はいつも、秋の空だったように思う。夏のくっきりとした青空でも、冬のひんやりとした灰色の空でもなく、穏やかに広がっている秋色をした空。ちょうど今、こうして二人で並んで眺めているような空だ。 「卓郎、あの話が聞きたい。中二の時の、たっちゃんの話」 「はぁ?」 「久しぶりに話して」 「もう、いいだろ」 「よくない」  並んで腰を下ろした砂浜で、靴の先でおれのサンダルに砂をかけながらヤツが言う。  まだおれたちが付き合う前、バーの仕事にも慣れた頃に一美から、「今週いっぱいでココを辞める」と打ち明けられた。なんでも、当時ヤツが住んでたアパートの近くにできたばかりのカフェにたまたま入ったら、居心地が良い上に店主の作ったメシが感激するほど美味くて、「なんか人手が足りないらしくて大変そうだったから、俺が手伝いますよって言っちゃった」  一緒に住むことになった時もそうだけど、今になれば、ああこの男はそういうことを軽く言っちゃえるヤツだよな。って納得できる。  この土地で生まれ育った店主が、古くなった自宅を改築して始めたそのカフェは、まさに隠れ家とでも言いたくなるような風情で、といえば聞こえはいいけれど、とにかくわかりづらい場所にあった。だいたい「最寄り駅から徒歩十五分」なんて、遠すぎる。聞いただけで行く気が失せる。古くから住んでいる土地勘のある人には、「あぁ、あそこの坊主が始めた喫茶店か」で通じるらしいが、たかが移り住んで三、四年ぐらいの学生にとっては、何度説明されても、果てはヤツに地図を書いてもらっても(またその地図もいい加減なものだった)たどり着けず、結局付近までヤツに迎えに来てもらってようやく、店長自慢の潮の香りのコーヒーにありつくことができた。  一美も今や正式なスタッフの一人として時には店主の代役を務め、店も沿線のフリーペーパーに紹介されたり、時には地元局の情報番組に取り上げられることもあるぐらい人気の店になったけれど、その日に限っては、おれ以外には近所の御婦人がお茶を飲みに来るぐらいで、早い話がヒマだった。  おれも午後からは何も予定がなく、今朝のようにだらだらと、庭先に二つ、三つ並んだうちの一つのテーブルを占領してヤツと話している時に、なぜかファーストキスの話になり、おれが中二の夏休みに三歳上の従兄とキスしたことを何気なく話した。男が好きだってことはヤツには話してあったし、まぁその頃からヤツのことが気になってはいたんだけど、その時にさらっと、たった一度話しただけでしかもその時は大した反応も示さなかったにもかかわらず、ヤツはそれから半年おきぐらいにその話を掘り起こしてきた。 「中二の夏休みに……、どこの山奥だっけ?」  ああ、もう、と内心うっとうしいのと苦々しいのと両方の思いをかみつぶしながら、何度目かわからないその話を引っ張り出すことにした。  父親の実家は、当時おれたちが住んでいた海のそばとは真反対の、見渡す限り山と田畑しかないのどかな田園地帯にあった。過疎化が進む一方のその地域に住んでいた祖母のもとで、夏休みのうちの二週間程度を過ごすのが小学生の頃からの恒例になっていて、宿題の山を片付けながら唯一この土地に住んでいる年の近い従兄の達郎、要するにたっちゃんと川で泳いだりトウモロコシ畑の水やりを手伝ったりしながら過ごしていた。  長い長い階段を上った先の山の上にさびれた小学校があり、その脇にたっちゃんの大きな家があった。 「この階段、何段あると思う?」  いつもゼイゼイ言いながら、やっとの思いで階段を上がるおれと違って、たっちゃんは涼しい顔をして時にはダッシュしながら駆け上がっていった。 「……知ら、ない」 「百八段」 「ヒャクハチ……それ、何か、意味のある数字?」 「除夜の鐘。つか、煩悩の数」  ボンノウ? そんなの、学校で習ったっけ? 「人間の欲とか、怒りとか、汚れとか。中学生には難しいか?」  と、おれの顔を覗き込むようにしてたっちゃんは笑った。  彼の部屋で、ペットボトルに入った水を一気に半分ぐらい飲み干した後でたっちゃんが、「海に行きたいなァ」と言った。 「ここは涼しいけど、山の景色はもう十分過ぎるぐらい味わったから」  そう言ってサラサラした声で笑った。「うち、海のすぐそばだよ。いつか遊びに来てよ」と身を乗り出したおれの頭にポンと手を置いて、 「俺さ、来年から留学するんだよ。びっくりだろ? こんな田舎からどこへ行くんだってゆうのな。短期だからすぐに帰って来るけど、来年の夏はいない。次に会うとしたら再来年」  汗に濡れたシャツを脱ぎながら、「それまで待てるか?」とたっちゃんがおれの目を見て言った時、「待つよ」と答えたおれの声はかすれていた。  たった一度きりの、夏の夕方の数分間。塩からい唇に触れた後、「誰にも言わないよ」とたっちゃんは言った。  ……いつまでだって待つ。おれのその言葉に嘘はなかった。なかったけれど、それ以来、おれが祖母の家を訪れることはなかった。その夏の二週間が過ぎ、おれが田舎を離れた後に祖母は急に体調を崩してあっけなく逝ってしまったからだ。  たしかに、今でもふっと思い出すことはある。  甘くもないし、きれいでもない。  もしもあのまま祖母が生きていて、たっちゃんの帰りを待ちながら次の年も、その次の年もあの田舎で夏を過ごし、彼の家に続く百八段もの階段を毎日のように上り続けたら、おれの迷いは吹っ切れたのかな。「海に行きたい」と言ったたっちゃんが山を下りておれの家を訪れ、二人で海へ行く日はやってきたのか――。 「……なるほどね」  ヤツは、手のひらに乗せた小さな貝殻を陽にかざしてみたり、指の先で転がしたりしながらおれの話を聞いていた。 「聞くたびに、話がどんどんドラマチックになっていってない?」 「毎回同じだよ。それより、恋人の昔のコイバナを何度も聞きたがるって、どんな趣味の悪さだよ」 「いやいやいや。そんなふうに淡くて刹那的で、でも一瞬激しく火花が散るような恋愛を、かつての卓郎がしたことがあったんだなぁって」  恋愛って。  あれは恋愛なんてものだったのか。  それよりも、今はどうなんだよ。  美化されていく一方の過去の記録よりも、きれいじゃなくても波風立たない毎日だったとしても、あの時よりも今のほうがずっと恋愛の只中にいると、おれは思っている。
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