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黒い人影が文目の方に近づいてくる。
周りも真っ黒だというに、どうして黒い人影が近づいてくることがわかるのだろうか。
不思議だ……と文目は思ったが、今はそんなことを考えている場合ではない。
文目と、文目の隣にいる女の子は必死に黒い人影から走って逃げた。
人影は大きさから言って大人の男性だろう。恐怖のせいか小学生の自分たちよりも遥かに大きく見える。
どれくらい走っただろうか、ふと文目の隣で走っていた女の子が、何かに躓いて転んでしまった。
(――瑞希! しっかりして!)
文目は屈み込むと転んでしまった女の子を抱き上げた。
文目が女の子を抱きかかえながら走り出そうとすると、後ろから何とも言えない不気味な気配が漂って来た。
文目が反射的に振り返ると、黒い人影が自分たちのすぐ近くまで迫って来ている。
黒い人影から腕のような細長い影が伸びると、文目が抱きかかえている女の子の肩をガッチリと掴んだ。
(――やめて! 離して!)
文目は必死になって女の子の腕を掴んで自分の方に引き寄せようとしたが、あの大きな影には力及ばず、女の子は影の方にズルズルと引き寄せられて行く。
(――瑞希!)
死んでもこの手を離すかと思っていた文目だったが、やがて手のしびれに我慢できなくなり、女の子の腕を掴んでいた手を離してしまった。
文目が手を離した途端、女の子が人影の方に吸い込まれていく。
(――待って! 瑞希を連れて行かないで!)
文目は人影の方に向かって必死になって叫んだ。
どうして、瑞希が連れて行かれてしまったんだろう……。
瑞希よりも、私の方が連れて行かれてしまえば良かったのに。
勉強もスポーツも何でもできて、合唱団のコンサートのソロパートの歌い手にもあっさりと選ばれてしまう瑞希よりも、何事も二番手にしかなれない自分の方が連れて行かれてしまった方が良かったのに……。
(――瑞希、ごめんなさい)
助けられなくてごめんなさい、私の方が連れて行かれなくてごめんなさい。文目は心の中で呟きながら、両手で顔を覆ってその場にうずくまった。
*
文目はゆっくりと瞳を開いて、顔を上げた。
銀葉館の3階の自室の大きな窓から、朝日が燦々と差し込んで来ている。
部屋の中が思ったよりも暑い。そういえばもう夏になるし……、と文目はベッドから起き上がると窓の一つを大きく開け放った。
窓の外から、初夏らしい爽やかな風が吹き込んでくる。
文目が少し前まで住んでいた高崎は、それこそ夏は強烈な暑さだった。新潟は高崎ほど暑くはないものの、冬寒くて雪が降る割には、夏はかなり暑い。
そんな暑い夏がそろそろやってくる季節だ。
文目は春先に鮮やかな黄色い花を見せてくれたミモザの木の葉が風に揺らめいているのを見ながら、自分がさっき見た夢のことを考えていた。
藤子の職場の上司の結婚式のスピーチの件が終わってから、結婚式の夢は全く見なくなった。
藤子の気持ちに区切りを付けるお手伝いをしたことで、不思議と文目も自分の気持ちに区切りを付けることができたようだった。
もう、かつて好きだった前の職場の人の結婚式の夢は見なくなったし、何かしらのこだわりを感じることもなくなった。
ただ、結婚式の夢の代わりに、今度は文目が新潟に戻って来た理由の夢を見るようになったのだ……。
(――瑞希)
文目は小学校時代の友達の名前を心の中で呟いた。
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