「弟編 帰れない」

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 同じように傘を持っていないあの人たちは、どうして僕より幸せそうなんだろう?  黒くドロドロした疑問が浮かび上がると同時に、なにかがプツリと切れたような感覚がした。  ……なんかもう、どうでもよくなってきた。別にずぶ濡れになってもいいじゃん。別に死ぬわけじゃないし、せいぜい風邪を引くだけだ。  僕は居座り強盗の如く、すっかり開き直って立ち上がる。  駅前を歩き始めて10分ほど。  商店街の近くに来る頃には、服も靴の中もぐちゃぐちゃになっていた。 「恋、か……」  あのアメノの言葉で、すっかり恋を意識しちゃってる自分が腹立たしい。  乙女か、僕は。  その時、すれ違い様に誰かにぶつかった。  濡れた地面に足を滑らせ、僕と相手はその場に転がってしまう。  肘を思いっきりぶつけてしまい悶絶していると、よく通る声がした。 「すみません!大丈夫ですか?」  僕は痛みを噛み殺して笑顔を作りだす。 「いえ……こちらこそ、前を見ていなかったので……」  少女のココアブラウンの髪は肩にかかり、雨に濡れてツヤツヤと輝いている。瞳は青くパッチリとしていて、清らかかつ活発な印象を受ける。 「あの……どうかなさいましたか?」  同い年くらいの見た目にしては妙に丁寧な言葉にたじろぎつつ、僕は彼女の持っていた傘を指さした。 「えぁっ!?」と少女の叫びが反響する。  その折りたたみ傘のか細い骨は、あらぬ方向にねじ曲がっていたのだ。 「あらら、壊れてしまいましたか……」 「ごめんなさい!弁償します」 「あ、いえいえ!お気になさらず。もう7年ほどは使っているものだったゆえ、壊れても仕方がないものです」  テヘヘと笑った少女は、考えこむように腕を組んだ。  目のやり場に困る……。 「しかし、どうしましょうか……おや?もしかしなくとも、あなたも傘がないのですよね」  僕は戸惑い気味に「ええ……」と返す。  すると、少女はパァっと笑顔を浮かべて言った。 「じゃあ、たった今から私も仲間ですね!」 「ええ、見れば分かりますけど……」  なんだろう……もう既にこの人のペースについて行けないのがわかる。 「ところで、どこか避難できる場所は……?」 「すぐそこにアーケード街なら」  上擦りそうな声をなんとか抑えて言う。 「ではそこへ参りましょう!」  ものすごく今更感はあるが、僕は少女の謎テンションに連れて行かれるがまま、歩みを進めた。 「さ、レッツゴー傘無し隊!」    ひとまず僕たちが立ち寄ったのは、旧商店街こと寺町アーケードだった。 「さて、どうにか屋根のある場所を見つけたは良いのですが……」  彼女は服の裾を絞りながら、真剣な表情で言う。 「とりあえず、寒いです……」 「たしかに、少し寒いですね……」  このままカフェへ直行したいところだが、少し時間がかかる。それまで、この人が寒さに耐えられるかわからない。あと、僕も耐えられる自信がない。 「へくしゅぶるぃっ!」  まるで中年のおっさんがしたような、とてつもなく大きなくしゃみに、足が数センチ宙に浮いたように錯覚する。 「あ、これは失礼……」  僕のリアクションを見た少女が、恥ずかしそうに頭を掻いた。 「……はっ!!!」  と、鼻をすすっていた少女が一際大きな声を響かせる。 「……ど、どうかしましたか?」  まるで、会話のキャッチボールで大砲でも持ってこられたような気分だ。 「見てください!あれ!」  彼女が指さした方向には、湯気の紋章が描かれた暖簾が揺れていた。  実際は渋い緑色なのだが、この時の僕たちには、まるで美しいと桃源郷の入り口のように輝いて見えていた。 「あの……一緒に入りませんか?」  思考が一瞬フリーズしたが、これは店内にという意味だ。何を期待してるんだこの変態め。  僕はぎこちなく笑みを浮かべて言った。 「そうですね。寒いですし、ここなら服を乾かせるかもしれません」  歴史の重みを感じる引き戸を開ける。すると、湯の香りに混じって、かすかに木材の香りが鼻をくすぐった。  いわゆる、昔ながらの銭湯だ。小さい頃に父に一度連れてこられただけだが、その内装はあまり変わっていない。  冷え切った心身をやっと温められたためか、隣の少女は表情を極限まで緩めていた。 「ふはぁ〜……あったかいです」  そんな彼女につられ、僕もホッと息を漏らす。  当初の予定よりだいぶズレたけど、これはこれで良い。  靴とぐっしょり重くなった靴下を脱ぎ、少し黒っぽいフローリングを歩く。  ほぼ人がいない店内に、ペタペタと足音が二人分響いた。  カウンターに来ると、白髪の番頭さんがどこかいじらしい笑みを浮かべていた。 「あらあら、お若いですねぇ……カップルでお風呂ですかい?」  違います。 「えへ?そう見えますか?」  何故か肯定的な少女に、僕は目を見開いた。 「いや、そこは否定しましょうよ!なんで照れてるんですか?」 「えへ」 「えへじゃなくて……」  呆れと困惑の目線を送ると、番頭さんがわざとらしく舌打ちをした。 「なぁんだ、カップルじゃねえんかつまんねぇの……」 「えぇ〜……」  困惑の果てに思わず声が出る。 「カップルじゃねぇなら、一人500円な?」  300円値上がりしたし……。  ここまで露骨に嫌な態度を取られると、すこしカチンとくる。  というか、なんで怒ってるんだこの人? 「どうしましょう……」  番頭さんを睨んでいると、少女の震えた声が聞こえた。 「ど、どうかしましたか?」  血の気の引いたその顔に、こちらも不安になってくる。 「お金、忘れてました……」 「え……」  この人、自分がお金持ってきてないことを忘れて、あんなこと言ったのか……。  呆れて物も言えずにいると。 「あぁぁぁァァァっ!!しまったぁぁ!!」  彼女は頭を抱えて、悲痛な叫び声を上げた。  周囲の視線が、一気に少女へと集まる。 「お兄さん、あんた男だろう?」 「ぐっ……」  番頭さんと、周囲からの視線が痛い。 「僕が出します……」  大丈夫だ。今日は幸いにも、多めにお金を持っている。本当は帰りに本屋で使うつもりだったけど……。 「いいん、ですか?」 「ええ、良いですよ」  僕は涼しげな笑みを浮かべる裏で、この代金は後で絶対アメノに請求してやろう……と決意した。 「カップル料金で400円になります」  番頭さんが満面の笑みを浮かべるなか、僕は財布の口を開いた。  カップル料金というより、それが普通の値段なんだが……。  その口がいつもよりいくらか重かったのは、言うまでもない。
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