14人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ
いつもは静謐な空気で満たされている店内だが、今日はまるで戦場のようだった。
どこもかしこも人だらけ。良質な静けさの隠し味として流れているラジオも、今では食器の擦る音と喋り声で完全に塗り潰されてしまっている。
「お待たせしました!ご注文のカルボナーラです!」
僕は完成した料理を持って、さほど広くないが人でギッチギチの店内を慌ただしく駆け回っていた。
小姫も、喧騒から必死に注文を聞き分けているようだ。そして「小さいのに頑張るね」と褒められて、少し誇らしげに笑顔を見せていた。
しかし、こんな状況でもなんとかなっているのは、あのあと本当に5分で来た姉さんのおかげだろう。
姉さんは異様なまでのレジ打ちスピード(しまいには計算速度がレジを超越した)と、絶対的なバランス感覚で料理を運びまくり、持ち前の愛想の良さで客をバッサバサ捌いている。
その様子ときたら、今朝の起きるのを渋っていた人間とはまるで別人のようだった。
兄さんはというと、料理を作ってはたまに落としかけ、作っては火傷をするなどと、まぁ彼らしく頑張っていた。
それから客が引き始めると、今度は僕も厨房に篭るようになった。
若干できた空き時間も皿洗いに費やし、感覚のなくなった手で料理を運んだ。
とうとう客足が途絶えたのは、15時を過ぎた頃だった。
客がすっかり消えた店内で、思わず僕は倒れ込んだ。
「お、終わったぁぁ………!」
ため息と区別がつかないくらい力を抜いてそう言うと、それに共鳴するように皆んなも、譫言のように「疲れた〜」や、ため息を漏らした。
「もう、今日は閉店の看板だそう?」
「そ、そうだね……」
姉の提案に、兄さんは力なくうなずいた。
小姫は、虚無感が滲み出た顔でお冷の結露を眺めている。
今日は少し無理をさせてしまった。あとで労ってあげよう。そう言う僕も、今は誰かに労ってもらいたいが……。
「よし、僕たちもお昼ご飯だ」
しばし時間が経過したあと、兄さんがそう立ち上がった。
「ああ、手伝う」
僕も立ち上がったが、兄さんは。
「いいよ。今日は手伝ってくれたんだし、ゆっくりして」
「そうしたいけど……今朝みたいに砂糖と塩を間違えられちゃ困る」
完全に気が緩みきった今なら、普段の兄よりもはるかにドジなはずだ。ひょっとしたら、店ごと吹き飛ばすかもしれない。
しかし兄さんは「大丈夫だよ」と疲れ切った笑みで答えた。
かなり不安だったが、こちらの体も限界なようで、吸い込まれるようにカウンター席に腰を下ろした。
小姫と姉さんも同様に、ノソノソと席に座った。
それから何度か、お皿が割れる音がしたけれど、今日くらい何も聞こえないフリをしたっていいだろう。
「お疲れ様、今日はほんとに助かったよ」
そう言って兄さんが置いたのは、モクモクと湯気が揺蕩うハッシュドビーフだった。
「余り物なんだけどね」
兄さんは自嘲っぽく言うが、余り物でもありがたい。
何も言わずにスプーンを掴み、茶色と白の境目をすくい取る。
「いただき、ます……」
ただ空腹のみ込められた言葉を呟いて、スプーンを口に運んだ。
濃厚な旨味が痛いくらい、疲れた体に染みる。
「はぁぁ〜………」
横の姉さんと小姫が、疲れをギュッと凝縮したようなため息を漏らした。
「はひぃ〜……」
兄さんに至っては、もはや、ため息になっていない。
ひとまず落ち着いたという安心感があるものの、今日はこれ以上動きたくない。
「バイト雇おうかな……」
兄さんがポツリと呟いた。
「うん、絶対そうしたほうがいい。というか、言わなくてもそうさせる」
姉さんは決意のこもった声でそう言い、残りのハッシュドビーフをかきこんだ。
姉さんの言うことにはもっともである。僕も首を力強く縦に振って同感の意を示した。
「それにしても、どうして今日はこんなに混んでたの?」
ふと思い出したように顔を上げた小姫が尋ねた。
「言われてみればたしかに……」と僕は唸った。
客を捌くことに必死になり過ぎて、肝心な原因については全く考えていなかった。
「あぁ……それならたぶん、雑誌載ったからじゃないかな?」
「「雑誌!?」」
僕と姉さんと小姫が、一斉に声を上げた。
突然の初耳情報に、危うくお冷やを倒しかける。
「え……言ってなかったっけ?」
キョトンとした兄さんに、「言ってないわ!」と姉さんが呆れて返す。
「あーあ……もしゆう兄ちゃんが早めにそれを言ってたら、何か対策を打てたかもしれないのに………」
小姫はそう言い切ると、盛大にため息をついた。
「あーあ……なぁんだ、僕たち大損してるじゃないか」
それらに便乗して、僕も眉間にシワを寄せる。
「ご、ごめんってば!! 次はちゃんと報告するから!」
「長男の上に成人でしょ? ホウレンソウくらいしっかりしてよ」
姉さんの言い分に、兄さんは「はて?」と言った具合に首を傾げた。
「報告・連絡・相談のこと! "いい加減しっかりしてよね"!」
「ご、ごめんなさい………」
兄さんは、姉さんの容赦ない言葉の猛撃になす術なく縮こまった。
それを言うなら、あんたも自分で起きろよ、と言いたかったが……ここはじっと堪えよう。
そんな僕の心中を察したかのように、小姫がつぶやいた。
「それを言うなら、お姉ちゃんも自分で起きようね?」
……ナイスだ小姫!
僕は心の中でそっと親指を立てた。それに反応するように、小姫はニコッとこちらに笑顔を見せた。
割と大きめのブーメランを受けた姉さんは、シュンとした様子でお冷やをちびちび舐めていた。
最初のコメントを投稿しよう!