春香の片思い。

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春香の片思い。

 今日は、美園春香が高校生になって初めてのクリスマスイブ。12月も下旬だと言うのに随分と暖かく、穏やかな風はなんだか、春の香りがしていた。  今、春香は母と二人、中乃川の川べりのうなぎ屋にいる。朝早くから墓参りに出たので10時を過ぎた頃にはすっかりおなかが空いてしまっていた。窓際の畳席に二人は向かい合って座っている。開け放たれた腰窓の障子の向こうには、母の肩越しに川の風景が見える。同じ川沿いでも、祖母の家のあたりは治水で大きな土手に囲まれて水辺を感じることが出来ないが、少し上流に来るだけで眼下に穏やかな水辺が広がる。水面で反射した冬の陽光が天井にユラユラと網目模様を映し出している。清流とは言えないが、それでも、水が揺蕩(たゆた)う風景に心が和む。  少なくとも春香の母、京子が、社会人になって一人暮らしをするためにこの地を離れるまでは、この中乃川の水も今より遥かに澄んでいて、祖母の家から少し歩けば綺麗な川のせせらぎに触れることが出来たらしい。その頃の名残なのだろう。今でも、祖母の家の近くには「どぜう」とか「うなぎ」といった看板の古びた食堂が点在している。どことなく、昔の町屋を思わせる街並みと、少し水辺を感じる祖母の家の周りの雰囲気が春香は好きだった。  春香がそんな風にぼんやりと、身近な川の今と昔に思いを巡らせていると、やがて二人の目の前に黒塗りのお重を乗せた盆が二つ運ばれてきた。 「ここのうなぎ屋さんはね、あの子が大好きだったの」  そう言いながら、母は丁寧に重箱を開ける。焦げ目のついたうなぎの甘い香りがふわりと立ち込める。春香も蓋を開ける。目の前が一瞬湯気で白んだ。鼻腔を擽るうなぎの香りに誘われるように、箸を入れる。ほろりと肉厚の身が割ける。程よく焦がされた皮がピリっと切れる感触を箸の先端にに感じながら、そのままタレの滲みたご飯と一緒に掬い上げ、口の中へ。  咀嚼のたびに、少し固めに炊かれた白米と焦げ目の付いたうなぎのほくほくとした身が混ざり合い、味覚と嗅覚を覚醒していく。  一心不乱に食べる春香を見て母が笑う。 「落ち着いて食べなさいって。ほらここ、付いてるわよ」  そう言って、母は右手の人差し指で頬を指す。春香はあっと言って、少し照れたように頬に付いた米粒をつまむと口の中にいれた。  少しおなかが落ち着いて来た頃、障子から差し込む優しい陽光を受けてキラキラと輝く小さなキーホルダーが目に留まった。   「ねえお母さん、これ・・・」
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