1 ジカード

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1 ジカード

北風が吹き荒れる。  濃密なまでに沈みそうな闇から逃れようと、サシャと娘のアルゼが森の中をかき分ける。 夕暮れは別れを告げるにはあまりにも早すぎる。 『奴ら』がやって来るからだ。 この北の地は太陽が顔を出す時があまりにも短い故、『奴ら』が支配するにはもってこいなのだ。  親子は見るからにみすぼらしいぼろきれでできた服を身にまとい、かじかんだ裸足は積もった雪に凍えて赤く変色しはじめる。 しばらくすると森の道は石と砂利の斜面に変わりサシャは娘を振り返ると息をのんだ。 アルゼの足が血でまみれている。 「母さん。あたしの事は平気よ」 娘が痛む足を引きずりながらついてきた。 夕闇があたりを支配しはじめ、ヤミワシドリの悲鳴にも似た鳴き声が上がる。 サシャは自らの服をちぎり、それをアルゼの足の裏に巻き付けた。 「アルゼ、とにかく私の背に乗りなさい」 アルゼが足を引きずりながらもサシャの背におぶさりサシャは少しずつ サシャは坂を進んでゆく。  正直なことを言うとこの夕闇のなか、明かりを一つも持たず夜目の利かない人間がいることは、この世界では自殺行為。 『奴ら』の巣窟を抜け出したこの二人は、もうすでに『奴ら』に追跡されている事も感づいている。 なけなしの望みを持ち、絶望から這い上がりここまでこれたことだけでも神に感謝しておこう。 サシャはまさに自分も足が血まみれになっている事に気がつきながらも進みつづける。  ユキオニマツの林にさしかかった所で、サシャとアルゼはなにも見通す事も出来ぬ暗闇で少しの間休むことにした。 ニガリツブテと言われるキツい匂いと苦みのある植物を月明かりの中石で潰してから、粉状になったものを唯一ある布袋に一握り入れる。 太陽が完全に沈むと、一寸先はなにも見えない暗闇に閉ざされる。  親子は寒さと絶望感にさいなまれていたが、母親サシャはせめて死ぬ前に夜明けを迎えたいと小さな希望の光を心にともしていた。  目が慣れてくると月光に雪道がきらきらと青白く輝く。それと同時に何対もの真紅の光が山の斜面に沈む闇にぎらついて見える。 『奴ら』だ。 サシャはアルゼを再び背負うと、速やかに黒松のわきの茂みに身を隠した。 そして、ニガリツブテの粉末を入れた布袋に片手を忍ばせながら息を潜める。 光る真紅の光が間近に迫り、とたんにサシャの背後から娘の悲鳴が上がった!。 しゃがんだままだったサシャが振り向くと、アルゼの姿は無く、かわりに蒼白な肌をした燃えるような真紅の長髪の美貌を持った女が立っていた。 ただ、彼女の目は赤くギラつき満足げに歪んだ唇からは犬歯にしては鋭く長い歯がのぞいていた。 そして、アルゼの体は女の繊細な手に持ち上げられていた。少女が手足をばたつかせて泣きだすと、女が苛立たしげに鋭い牙をむきながら唸った。 「お黙り!お前は王の食事として献上される運命なのだ!」 赤髪の女と同様美貌の女達が木立の間に音も無く現れた。  完全に包囲され娘が『奴ら』に捕まり、絶体絶命のサシャは渾身の勇気を振り絞り、アルゼを持ち上げている女の顔めがけてニガリツブテの粉末を投げつけた。 「ガッ!」という肉食獣じみた声を上げた女はアルゼを雪の上に投げ出し、目を覆って苦痛にのたうち回る。  その隙にサシャとアルゼは死に物狂いで逃げ出した。 ニガリツブテは催涙効果もあり、『奴ら』の驚異的に発達した嗅覚、視力を麻痺させることができる。 人間にニガリツブテの粉末を顔に投げつけられた女は目を開く事も出来なかった。 その代わりに仲間に逃げた逃亡者を追うように命令すると、仲間の怪物たちはユキオニマツの森を残像を残す速さですり抜けながら追跡を続行した 。  一方サシャとアルゼは 後ろも見ずに とにかく走っていた彼らに捕まれば後は残忍な運命が待っている。 『奴ら』の弱点は ニガリツブテだけでは つくことはできない 。何しろ彼らは再生力があり、人間の力では到底かなわないのだ。 あまりの恐怖に すでに血が流れた 足の痛みも 忘れてしまうほど 二人は闇をゆく。 しかし 、雪に残る二人の足跡 そして 足から流れた血の跡が 彼らの追跡を優位にさせてしまう‥‥‥。 もうすでに怪物たちが二人の前方に 何人か 包囲している。 ニガリツブテ の粉末も 切らしてしまっているその上 足の傷口は広がっている。 これ以上走ってしまうと 皮がむけ 尖った 小さな石 や 砂利 に 傷つき もうすぐに 走れる状態ではなくなってしまう。 血を流しながら走ってきた親子二人は、とうとう雪の上で膝をつき もう逃げる望みはないと悟った。  膝を付いた二人の真後ろに赤髪の女達が現れた。 「母さん、もうだめなの?」 アルゼの一言が闇に虚しく響いた。 絶望に陥る親子を紅い毛皮を纏う化け物が二人を見下ろし、その口を満足げに歪める。  しかし沈黙の中、彼女達は一斉に何も見透かせない闇に向かって振りかえる。 まるで誰かの呼びかけに反応しているようだ。 すると、女達の姿が変化し始めたのだ。 骨と骨格自体がバキバキという耳を塞ぎたくなる奇怪な音を響かせながら変形し始める。体中に真紅の毛を生やし、二足歩行の人型から俊敏でしなやかな猛獣の骨格に変化したのだ。 見る間にサシャとアルゼの目の前にいた赤髪の女達の姿は紅蓮色の毛並みをした狼に変わっていた。 1頭が一瞬親子二人を見据えて低く唸ったが、狼達は闇の中に向かって駆けていった。  サシャとアルゼは高鳴る鼓動と早まる呼吸をなんとか押さえると、痛めた足で雪道を歩き続ける。 奇跡でも起きたのか、神に救われたのかとサシャは驚きを隠せない。 けども、また奴らが戻ってきたらと思うと、あの時の恐怖心がジワジワと心に甦る。  親子は何とか山を下りきり、村の廃墟に辿り着いた。 闇にたたずむ廃墟は物音一つ聞こえず不気味であったが、あの怪物達に比べるとまだまだましだった。 サシャとアルゼが廃墟の一つの建物の中に入ると、そこには無数の白骨化した人骨があちらこちらに散らばっていた。 アルゼが息をのむと、サシャが娘の肩に手を置いた。 「ここも“奴ら”に襲われたのね。昔は活気があふれていたはずだわ」 サシャはそんな悲惨な場所に腰を下ろして、 怯えるアルゼに手招いた。 アルゼはしばらく無言で首を横に振ると、サシャが「大丈夫よ」と声をかけた。 アルゼは外の風なりに驚き、すぐにサシャのかたわらに座り込んだ。 しばらく吹雪は続き、親子は厳しい寒さに耐えている。 「母さん。父さんは大丈夫かな…」 アルゼが呟くように言うと、サシャは心を痛めた。 サシャの夫はアルゼが産まれる前に“奴ら”に捕らわれ、二度と帰らなかった。 サシャとアルゼが捕らわれた時監獄の中、サシャは夫の形見を見つけた。アルゼを悲しませないために、母サシャは涙をこらえていた。 それを回想しているサシャは、娘の両の手を取った。 「お父さんはいつもあなたと一緒よ」 娘の手に渡した物は小さなペンダントだった。 「え?」 幼いアルゼには「いつも一緒」と言う意味が分からなかった。 しばらくして手渡されたペンダントを見て意味が分かりだし、しだいに今まで心に込めていた悲しみが胸の中に駆け巡りそれが目から雫になりこみ上げてきた。 自分の父親の死に嘆くアルゼにサシャは寄り添うしかなかった。 二人は凍えて白い息を吐いていた。 まだ満月が吹雪の中の二人を照らし出す。 酷い空腹と寒さで二人は、気を失いそうだ。 サシャは覚悟を決めていた。 “奴ら”に食われて死ぬよりこの廃墟の中で死んだほうが良い、と。  意識を失いかけた母を見て、アルゼは朦朧とする中自分も死ぬんだと悟った。 二人は目の前に真紅の狼がやって来るのも気付かず深い闇に沈んでいった。           †                     闇の中、アルゼはオーロラのような虹色の帯に包まれていた。 あぁ、暖かい。 もう寒くなんかない。 自分はもう、死んだのか。 こんなに暖かい。  静けさの中、黄昏の光が彼女を照らし出した。 すると、少年の声が自分を呼んでいるのに気付いた。 もしかしたら、天使の声なのか?。 「…………っして!」 遠くからその声が響いてくる。 アルゼは声のする方に行きたかったが、身体が動かない。 そうだ、あたしは死んでいるんだった。 「………………んでないよ!」 声はしだいにはっきり聞こえてくる。 しばらくして光が差しこみ、アルゼは暗闇から目を覚まし、目を開いた。 彼女が目覚めた場所は赤石の積み立てできた部屋だと気付いた。 暖炉に炎が赤々と燃えて、アルゼの身体には治療が施されている。 起き上がるとそこには燃えるような紅蓮色の髪の少年が、アルゼが目覚めるのを見てホッと胸をなで下ろす様子だった。 アルゼは一瞬助かったと分かったとたん、母サシャが居ないのが分かり、赤髪の少年に問いかける。 「母さんは?」 少年はしばらくして悲しげな表情を浮かべた。 「君の母上は……、亡くなっていたよ……」 その言葉に、アルゼは身体中が固まった。 そして少年の手に鋭い爪があるのを見て、アルゼは恐怖の反動で彼の手を振り払った。 少年は驚きと哀しみの表情を見せた。 アルゼは赤髪の少年に敵意を込め、まる醜い化け物を見るような視線を向ける。 「あなたは真っ赤な髪に尖った爪。あなたは“奴ら”と同じ!」 「私が気を失った時、あなたは私の母さんを食い殺したのよ!」 少女はなけなしの力をふりしぼり少年に飛びかかった。 「違うよ!僕は君の母上を襲っていないよ!本当に君の母上は亡くなっていたんだよ…」 アルゼは口元を結んだ少年を見て、両手の力をゆるめた。 アルゼは“奴ら”の仲間に捕まった事と、母を亡くした事に生きる希望を失った。  しかし、少年はアルゼを囚人として扱っていない。 寒さの中助け出し、怪我の治療もしてくれた。 落ち込むアルゼに少年は黒パンと水を持ってきて、アルゼに差し出した。 「ほら、これしかないけど食べ物だよ」 少年の言葉を聞いて、アルゼは自分が空腹である事にようやく気付いた。 少女は力の限り黒パンを頬張った。 「そんな勢いでパンを食べると喉がつかえるよ」 少年が焦るほど、アルゼは空腹だったのだ。 腹を満たしたアルゼは少年の部屋の暖かい寝床に横になっていた。 アルゼの心は感謝の気持ちと疑いが入り混じった気持ちだった。 「一体ここはどこで、あなたは誰なの?」 唐突に問いかける少女に少年は答える。 「ここは僕の隠れ家だよ。後は名前だったね、僕の名はジカード・ブルートイフェル」 ジカードは名乗った後に、ブルートイフェルの名を聞いて目を見開いているアルゼに言葉を付けくわえる。 「そう、僕はあの暴君の息子だよ。でも誤解しないで。僕は他の奴とは違うんだ」 アルゼが目の前に居るジカードが“奴ら”の中で位が頂点の者の息子だと知ると疑問が頭をよぎった。 「大丈夫。僕は産まれてから一滴も人間の血を吸った事がないんだよ。そして、この隠れ家に隠れて逃げた人間族達を助けているんだ」 「助けた人間達をあなたはどうするの?」 「もちろん安全な場所まで連れて行くんだよ。僕の一族の“捕獲者”から逃れるには、光の谷の村に行くしかないんだよ」 「光の谷って?」 アルゼが吐息とともに言葉を発した。 「行けばすぐに分かるよ。僕たち夜の一族が住めない唯一の人間族達の安息の場所だよ。僕たちが嫌う光が溢れる谷だよ」 ジカードは何かに反応する様にアルゼから視線をそらした。 しばらく沈黙が続き、ジカードはアルゼに告げた。 「まずいな“捕獲者”をまいたはずなのに、近くまでやってきている。このまま出発するしかないか……」 アルゼはあの恐ろしい追っ手が来るのを知ると身震いした。 ジカードがアルゼの背中をソッと押す。 「大丈夫。必ず光の谷に連れて行くから」 アルゼが見た赤髪の少年の真紅の瞳は何かに立ち向かう様に、真っ直ぐと前を見据えていた。           †  厳しかった吹雪が弱まり、たたきつける様な風も止みはじめた。 紅い狼の集団が獲物が隠れる場所を突き止めた。  周りの狼達の中で大柄で傷目の一頭が、群れの先頭に立ち、唸り声を上げた。 この狼が視線を向ける先に赤石の山がたたずんでいる。 傷目の狼の姿が伸び上がり、吸血鬼(ヴァンパイア)の男の姿に成した。 ぎらつく眼を光らせて、彼は狼の群れを振り向く。 「ここだ…、前回も王子が獲物を連れてきた場所だ」 気付くと群れの中の1頭が端整な顔立ちの吸血鬼(ヴァンパイア)の姿に変わり、傷目の吸血鬼(ヴァンパイア)の横に立っていた。 「今回の虫けらの脱走も王子が助けたに違いありません。何せ王子は城の隅々まで構造を存じていますから」 傷目の男ザドの横細身の吸血鬼(ヴァンパイア)ザイアが自らの尖鋭なかぎ爪眺めていた。 そんなザイアをザドが苛立ったように舌打ちして睨んだ。 「分かっていますよ」 ザイアはザドを少し馬鹿にしたような声音で答えると、赤石の山に向けて指の一振りで小型の矢を放った。 吸血鬼(ヴァンパイア)の指で放った矢は銃の弾丸さながらの速度で小山の麓に刺さり 先端から大量の黒い煙が放出したのだ。 この煙の正体は、嗅がせた吸血鬼(ヴァンパイア)を凶暴化させてしまう恐ろしい香料「狂気の香」である。 ザイアは一族の魔の調香師であり、王の命で禁断の香料をも作り出すのだ。 「さぁジカード王子、『狂気の香』によって今宵も貴方自らの手で虫けらを喰らうのです。私の『狂気の香』から逃げられませんからね」  小山を覆う黒い煙はしばらくすると消え始めた。           † 小屋の中ではジカードが急いで床の隠し通路の蓋を開けてアルゼとともに通路に足を踏み入れた。 ジカードは魔の調香師ザイアの策に掛からぬよう地下通路を探し出していたのだ。  前回「狂気の香」の香りを吸ってしまってジカードは自我を失い助けた人間を食い殺してしまったからだ。 「僕の背に乗って!時間が無いんだ」 ジカードは未だに足の怪我が治りきっていないアルゼを背負うと、重さも感じていない程の素早さで闇の中を駆けてゆく。 負ぶさるアルゼは暗闇の中で、自分が今どこを進んでいるか分からなかった。 しかし、この暗闇はジカードには人間が太陽の下で風景を認識出来るのと同じように見えている。 かなり進んだが恐ろしいのはこれからだった。 「狂気の香」は意志を持った煙で、自らを従えるザイアの命に逆らえない。 「狂気の香」の煙はジカードを追尾し続けているのだ。 目に見えぬ煙を背後からジカードの顔を覆いかかる瞬間、ジカードは通路の出口から死に物狂いで駆ける。  狭い通路と違って「狂気の香」の煙も外気に触れて消えるはず。 ジカードはアルゼを背負ったまま再び歩みを進めようとした、次の瞬間…! 鼻に刺さる様な香りが、ジカードの鼻腔を突き抜ける! 「狂気の香」がジカードの一瞬の隙を突いて、彼の鼻に向かって漂ってきたのだ…。
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