4人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
吸血鬼を凶暴化させる「狂気の香」を吸い込んだジカードは、
錯乱し負ぶさっていたアルゼを背から振り落とした。
幸いアルゼは雪の上に落下したので、ほとんど痛みを感じなかった。
ジカードの心に異変が起きる。
突然人間を捕食したいと言う本能が、彼の理性を消そうとしているのだ。
ジカードはアルゼが目に入るなり眼差しに殺気を宿す。
そして、ジカードは鋭い牙をむき肉食獣を思わせる様な唸り声を上げていた。
アルゼはジカードの突然の変貌に恐怖していた。
早く逃げなきゃ…!
でも足が痛い!
凍るような雪の上をアルゼはかじかむ手足を必死に動かし、目をぎらつかせる吸血鬼から逃げようとしていた。
次の瞬間、アルゼの身体は吹き飛ばされていた。
ジカードの腕の一振りでアルゼはユキオニマツの幹に突き飛ばれる。
幹に後頭部を強打し、アルゼの意識は朦朧としている。
ジカードは雪の上をひと跳びでアルゼに急接近した。
そして、両腕と掌を広げると、爪という爪が長く伸びはじめ刃物さながらに鋭く硬化し黒光りしている。
「ジカード!なぜこんなことをするの!?まさか……私を殺すの…?!」
激しい恐怖と絶望の中、アルゼがか細く震える声で叫んだ。
すると牙をむいていた少年は動きを止めた。ジカードは苦悩するように顔を歪め、その瞳にうっすら雫が光った。
そう、彼には僅かだが自我が残っていたのだ。
ジカードは何かと闘い抗う様に目を固くつむると、恐ろしい唸り声とともに必死に口を動かした。
「逃げ…て…!もう人を……殺したくない……」
そして、アルゼの頭上に振り上げかけている左腕に自らのかぎ爪を深く突き刺したのだ。
「!!」
アルゼは涙を浮かべて両の手で口を覆った。
ジカードの片腕から大量の血があふれ出した。
しかし、片腕は貫かれたのにも関わらずいまだにアルゼに斬りかかろうとしていた。
ジカードはその片腕に更にかぎ爪を深く突き刺した。
「さぁ……速…く逃げて…!」
ジカードの片腕の傷口から血が溢れ、ボタボタという音を立てながらこぼれ落ち雪を真っ赤に染めていた。
「何をしているのです?ジカード王子」
頭上から声が響いた。
声の主は捕獲者の吸血鬼ザイアだった。
ジカードは消えかける理性を保ちながら、崖の上に目を向けた。
ザイアがジカードが腕に深くかぎ爪を突き入れている様子を覗き込んでいる。
しかし他愛のないものを見たようにザイアが呆れて肩をすくめた。
「貴方はその家畜を助けて愛玩用にするつもりですか?」
あの吸血鬼が自分に対して家畜や愛玩用と呼ぶ様を見てアルゼの身体に悪寒が走った。
「家畜は家畜。我らは我ら。いい加減立場をわきまえるのです!」
アルゼが瞬きした時にはザイアが崖の下に立っていた。
一体、いつあいつは崖を降りてきたのか?
さっきまで崖の上にいたのに……。
アルゼにはザイアの移動した瞬間も見ることができなかった。
「狂気の香」で心も怪物になりかけているジカードは血肉を喰らいたい本能に駆られながらも、ザイアに対する憎悪の眼差しを向けていた。
「お前が……、僕…の力を利用するなんて……」
大量出血と飢餓状態でジカードはザイアの目の前で力なく倒れ込んだ。
「ッ!!ジカード!死なないで!」
叫ぶアルゼの目から涙が溢れる。
全ての望みを彼女は失った。
母親を、そして唯一自分を守ってくれる者も失ったからだ。
ザイアが絶望と恐怖に震えるアルゼへにじり寄り、怯える少女の顎にかぎ爪を当てた。
「いい顔だ。絶望した家畜の顔はいつ見ても心地が良い…」
ザイアの唇が三日月型に裂けると鋭い牙が覗いた。
アルゼには助けを呼ぶための力も、誰かに救われたいと思う気持ちも消え失せていた。
ザイアの背後から赤毛の狼の群れがワラワラと現れた。
「こんなに愉快でお前をり嬲りたい気分なのだが、あいにく王がお前を喰らうのを待っておられる」
ザイアが腕を一振りすると、甘い香りがアルゼの顔に漂う。
抗う事も出来ぬ睡魔に襲われ少女が深い眠りに着き雪に横たえると、狼の群れの中の1頭が赤髪の吸血鬼に姿を変える。
「捕獲者達よ、家畜の子供を小賢しい王子から奪回できた」
しばらくザイアが忌々しさを込めて倒れているジカードを見下げながら仲間たちに告げた。
「王がしびれを切らす前に城に家畜を連れ帰るぞ」
「魔の調香師」ザイアが仲間達の前で崖の上へ顎をしゃくる。
吸血鬼がアルゼの身体を抱え込み、崖に向かって歩みを進み始める。
横たわるジカードの横を吸血鬼達が素通りしようとした刹那、
ザイアとその仲間達の身体は吹き飛ばされた。
吸血鬼達は岩に叩きつけられ、ある者はあまりにも強い衝撃によってユキオニマツの槍の様に太く鋭い枝に身体を貫かれている。
ザイアはユキオニマツの幹に背中を打っただけだったが、突然の出来事に驚愕の表情を浮かべている。
ザイアが前方を向くと、今まで横たえていたはずのジカードが怒りで震えながら仁王立ちしていたのだ。
「ザイア……!お前は絶対に赦さない!」
怒鳴るジカードは完全に理性を取り戻している
「まさか……大量の出血の上に、『狂気の香』で凶暴化させていたのに。正気にもどったなんて」
ザイアが自分の策が崩され、気持ちをかき乱している。
するとジカードの身体中にに真紅の毛が生え始め、身体や頭がイヌ科の生き物の骨格に変形した。
少年は姿を変えたが、ザイアはあることに驚愕していた。
ジカードの姿は完璧な魔狼に変化せず、人の形態を保ちながらも狼に成していた。
なぜだ?!
我ら血の悪魔の一族は完全な魔獣に変化するはず…。
このジカード王子は変化の力を操る事を覚えてしまったのか?!
獣人化したジカードは長い口吻の上唇をめくり上げて牙をむき、ザイアに向かって飛びかかった。
ザイアはユキオニマツの木立の間に飛び退きざまジカードの首筋辺りに向けて指を数本振るう。
すると、ザイアの爪の先から見えない空気の刃が生じ、それが周辺の木々を斬り倒しながらジカードに襲いかかる!
しかし空気の刃はジカードの交叉させた腕を切り裂くどころか、受け流されて周りの空気に同化してしまった。
ザイアは目の前の光景を疑った。
鋼の塊でさえも真っ二つにする程の切れ味を誇る斬風が自分より未熟なはずの子供の身体に傷一つ付けなかったからだ。
「馬鹿な!」
ザイアは生まれて初めて自分の無力さを思い知らされ唖然としていた。
「ガウゥゥ!!!」
ジカードは獰猛な咆哮を上げ、ありったけの力をこめて、交叉させていた腕をザイアに向けて大きく振り上げた。
ザイアが両の手の鋭利な爪をこすり合わせると斬風が彼の身体全体を覆いはじめる。
ザイアは斬風を纏った状態でジカードに向かって飛び上がった。
しかし、ジカードは斬風の切れ味をものともせず吸血鬼の胸部に右手を突き入れていた。
ザイアの身体は勢いよく吹き飛ばされて、山の斜面にはクレーターのようなくぼみができあがった。
ザイアは心臓をジカードに潰され、死の淵で呻く。
「心臓を失ったとしても、死ぬわけにはいかない。我らが王ザーガイツ様に私は永遠に仕えなければ…」
しばらくしてザイアは獣化が解けたジカードに見下ろされているのに気付いた。
「王の食事を……逃がし、私に歯向かった罪は重いぞ……。お前は思い知る……、自分がどれほど愚かだったかを……」
ジカードへの深い憎しみを込めた言葉を残し、ザイアはこときれた。
ジカードは初めての仲間殺しを犯したのだった。
赤髪の少年はただ立ち尽くしていた。
最初のコメントを投稿しよう!