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 血の付着したリボンと傘は、義陽(よしひ)と彼の父親によって警察へ届けられた。  長時間に渡る事情聴取も請け負ってくれたらしい。  僕は、大変なショックを受けたからという名目で――あるいは、鬼瓦がなんらかの圧力を警察にかけでもしたのか――なにも語らぬまま、家から一歩も出ぬままに、その後の数日間を過ごしていた。  それでも僕は、事件のあらましについてかなり詳細に知ることができた。父の腹心、岩のように大きな世話役が、既知の警官から得た情報を聞かせてくれたからだ。  あの後――。  雑木林の奥、掘り返されたばかりという形跡が残っていた木の根元から、紫さんの遺体は発見された。  警察は、古民家のなかでがくがく震えて縮こまっていた三十代の男を逮捕した。  男は、痴呆を患った母親と二人暮らしだった。母親の世話に追われ、やがて働きにも出られなくなり、鬱屈とした日々を送っていたのだという。  まともに外出することもできない男は、家の真正面にあるバスの停留所を、いつしか毎日のように眺めるようになっていた。  バスに乗り、遠くまで自由に行き交いする人びとを……男の存在にも気づかぬまま、どこかから現れては、どこかへと立ち去ってゆくばかりの人びとを……憧憬と嫉妬をこめたまなざしで、見つめ続けていたのだ。  そんな折り――。  紫さんが、バスに乗ってあの町へやってきた。  健康的な黒髪と、桔梗色をした大ぶりなリボンをなびかせながら降り立った紫さん。  これから新しい暮らしを始める場所、あの町の土を初めて踏みしめた、まさにその瞬間。  彼女は、ぞくっと身震いをした。  あの澄んだ瞳で、戸惑ったように、おびえたように周囲を見渡した。  ――気づいてくれた。  自分の目線を敏感に感じ取った紫さんを見て、男は歓喜した。  悦びを感じた。自分の存在を、ここにちゃんと生きているんだということを認めてもらえたような気がして、本当にうれしかった。変わらぬ毎日に腐りかけていた心が新しく生まれ変わったかのような、そんな幸福な気持ちを味わった。  男は、紫さんに懸想(けそう)したのだ。  それからも男はひとり、うだるような夏の暑さに身もだえしながら、ひたすら名前も知らぬ少女への思いをつのらせていった。  毎日窓の外を見つめて、彼女の姿を探した。すると、晴れの日だろうが雨の日だろうが、彼女がしょっちゅうそのへんを散歩していることに気がついた。  男はやがて、母親の世話の合間に、外を歩く紫さんを尾行するようになっていた。  いつ、どんな場所でも、男が物陰から思いをこめてじっと見つめ続けると、紫さんは必ずそれを察知した。視線の正体を探してあちこちを見た。  彼女はひどくおびえて、まるでこわがっているかのようにも見えたけれど、自分たちはこんなにも通じ合っている。彼女だって本当はそのことをとても喜んでいるんだと、男は幸せな気持ちでそう解釈した。なぜならば、それでも紫さんは決して、毎日の散歩をやめようとはしなかったからだ。  僕が迷子になって、紫さんに助けられたあの日も、男は遠くから彼女のことを見ていたのだろう。  紫さんはやはり、金魚柄の浴衣の透けて見えた、儚い白い影におびえていたのではなかった。おぞましく、なまなましい、強すぎる思いをもった生者の視線に貫かれたからこそ、あんなにも恐怖し震えていたのだ。  カブトムシを捕りに行こうと相談していたときも、紫さんは感じたのだろう。だから一瞬凍りつき、僕らを連れて足早に立ち去った。あのとき、男はきっと、家のなかから見ていたに違いない。  そして――あの日を迎える。  紫さんはバス停で、僕と義陽がやってくるのを待っていた。  待ち合わせの時刻になっても僕らは到着しなくて、その上、急に雨まで降ってきた。一昨日に傘をなくしてしまっていた紫さんは、しとどに濡れながら、それでも僕たちのことを待ち続けていた。  ひとりぼっちでいつまでも立っている紫さんを見て、とうとう男は動いた。痴呆の母親をつかまえ、よく言って聞かせると、すぐに紫さんのもとへと向かわせた。  母親は紫さんにあいさつをしてから、そんなに濡れては風邪をひく、うちで雨宿りをしてはどうかと誘った。  紫さんは、一度は遠慮した。母親は、じゃあ傘を貸してあげるから、それだけでも持っておいきなさいヨと言った。  人に頼ろうとしない紫さんは、それも断りかけて――でも。  ハッと、したように。 「ああ、いけない、あの子たち」 「あの子たち、きょうも傘なんか持ってきちゃあいないかもしんないわ。だってねえ、雨が、こんな急に降ってきたんだもの」  紫さんは、やさしいあの人は、今度こそ母親の言葉を受け入れて。  そして、僕たちのために傘を借りるべく、一緒についていった。  ずっと恐れていた脅威の待ち受ける場所に、そうとは知らず、みずから足を踏み入れてしまった。  男は自分の黒い傘を持ち、裏口から外に出た。そして、玄関の前に立つ紫さんを背後から襲い、雑木林の奥へと連れこんだ。  ……ここから先のことは、幼い僕には伏せられた。  だから、勝手な想像をするしかない。  紫さんは、きっぱりと拒絶したのだと思う。恐怖に震えながらも、きっと最後まで、あの清らかな心でもって戦ったのだろう。  自分の思いこみを、甘い幻想を打ち砕かれた男は、錯乱し、逆上し――紫さんを殺害した。  彼女の血液が飛び散って、おそらくこのとき、男も気づかぬうちに、あの傘の内側へと付着したのだろう。ほどけた桔梗色のリボンもまた、音もなく風に運ばれたのだろう。  男は動転しながらも、証拠隠滅を図ったらしい。大急ぎで穴を掘り、紫さんの遺体を埋めた。凶器だとか傘だとか、目についた痕跡はすべて持ち去って、家に戻った。  あとは、せんに述べた通りだ。  僕と義陽は、殺人鬼のひそむ家にやってきて、痴呆の母親から傘を借りた。女性の傘と、紫さんの血を閉じこめた男物の重たい傘を。あの母親は、もう紫さんに会ったことも、息子が紫さんを襲ったことも、忘却してしまっていたのだろう。  僕たちが来たときには、もはやそれだけの時間が経過していたということだ。  紫さんは、とっくに土のなかにいた。  すべてが終わってしまったあとだった。
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