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 僕はまだ、七つの子どもだった。  恐い顔をした屈強な男たちに、女中が数人。常に人がたくさん出入りする広い家に住んでいたけれど、母親はおらず、父ともまったくうまくいっていなかった。  父から向けられる、氷のように冷たいまなざしが嫌いだった。家のどこかで父を見かけるたび、心臓が縮んで痛むような気がしたし、感情が高ぶっていちいち泣き出したくなった。  勝手に屋敷から出てはいけない――大きな体をしたやさしい世話役に言い含められていたけれど、僕はその目を盗み、小さな動物みたいにたびたび脱走をくり返した。  けれど、結局は夕食までに帰ってくるのだ。子どもの足では歩ける距離もたかが知れていたし、日が沈みかけあたりが暗くなってくると、それはそれで別の心細さがあったから。  あの夏の日も、僕は泣きべそをかきながら家から飛び出した。  でも、幼かった僕は、夏はおそろしく陽が長いのだということを承知していなかった。  父のことを恨み、思うさまいじけながら、まだ明るい、まだだいじょうぶ、そう考えてずんずん歩き続けた。真っ昼間から空がどんよりと曇っていたから、日差しの暑さだって気にならなかった。  途中、オニヤンマかなにかを見かけて、夢中で追っかけていたのかもしれない。気づくと、それまで来たこともない、まったく見知らぬ土地にぽつんと立っていた。  帰らなければ。はっとしてそう思ったときには、もうとっくに道を見失っていた。こわくなって、やみくもに駆けていたら、ますます迷ってしまった。足も痛くなった。  そうこうしているうちに、とうとう陽も落ちた。焦燥のせいか空腹は感じなかったけれど、切ないくらいに口のなかが渇いていた。  なすすべもなく、田んぼの群に挟まれた、寂しい田舎道のまんなかに突っ立った。  近くの民家にでも駆け込んで、道を尋ねればよかっただろうか?  いや、だめだった。僕は鬼瓦の家が他とは住む世界が違うのを知っていた。迂闊(うかつ)に「鬼瓦から来た」などと言えば大変なことになるのではないかと思っていた。  汗だか涙だか鼻水だかが止まらなくて、ますます悲しくなった。薄手のシャツの短い袖を引っぱり、べたべたと顔をぬぐっていたら、遠くで雷がひとつ聞こえて、黒い空から雨がしたたり始めた。  雨をしのげそうな場所も見あたらない。びしょ濡れになるのを覚悟して、疲れのあまりその場にしゃがみこんだ。  そのときだった。僕のまわりだけ、ふっと雨がやんだ。 「あんた、迷子?」  うしろを振り返ると、ブラウスにスカート姿の女の人が腰をかがめて、自分の傘を僕のほうに大きくかたむけてくれていた。  ……女の人、か。あとで知ったことだが、彼女はまだ十五歳だったという。  十五歳といえば、現在僕のところで保護している瑠璃子(るりこ)という少女とほとんど同じくらいだ。  少女。  そう、彼女もまた、今の僕からすれば少女と呼ぶのが適当な、若く可憐な女の子だった。しかし、当時の本当にちっぽけな迷子の僕からすれば、彼女は立派なおとなの女性に見えた。  彼女はてきぱきと、ひとりで来たのか、怪我はしていないか、といった質問を僕に投げかけた。  しゃっくりを飲みこみながら、僕は首を縦に振ったり横に振ったりして答えていった(どうして片目を閉じっぱなしなの、という問いにだけは、決して答えなかったけれど)。  やさしくてまっすぐな彼女の瞳に見つめられると、先ほどまでとは別の理由で泣き出しそうになった。だから僕は少し目をそらして、なるべく彼女の髪あたりを見ていた。  彼女は、生き生きと伸びた黒髪を結い上げたりはせず、さらりと背中に流していた。  でも、顔にばさばさと髪がかからぬように、なんというのだろう……頭の上半分の髪だけ集めて後頭部に持ってきた、ちょっと女学生風というのだろうか、そういう髪型をしていた。  まとめたその髪の束は、深い桔梗色の大ぶりなリボンで飾られていた。  どこから来たのか、名前はなんというのか。そのあたりを訊かれたとき、僕は口ごもった。  けれど結局は心細さに負け、鬼瓦京作、と名乗った。震え声だったから、あたりの田んぼで鳴きまくっていたカエルたちの声にほとんどかき消されてしまったけれど。たぶん、傘のなかでだけ聞こえた秘密だ。  彼女は少し驚いた顔をした。でもそれだけだった。 「よーし、よく言えたじゃないの。京作ちゃん、ね。――あたしは、(むらさき)ってえのよ」 「……リボンの色と、おんなじ名前なの?」 「そうよ。覚えやすいでしょう?」  紫さんは笑った。年上の人が自分の発言を受けて屈託なく笑ってくれるというのは、子ども心にすごくうれしいものだ。 「あんたのおうち、知ってるわ。あの大きなお屋敷でしょう? そうね、バスもあるけど……こんな時間だから、きょうのは終わっちゃったと思うわ。あたしといっしょに、歩いて行きましょ。もうだいじょうぶよ、おうちに帰れるわよ」  紫さんは僕を立たせると、おんぶしてあげましょうかと言った。  いやだと拒んだら、紫さんは代わりに、傘を持っていないほうの手を差し出してくれた。握ると、疲れ果てていたはずの僕はふしぎと元気が出て、彼女の横をてくてくと歩くことができた。 「……僕のこと、こわくないの?」  暗い足元に気をつけながら、ぽつりと尋ねてみた。紫さんは吹き出した。 「なによ。あんた、そんなかわいいお顔して、実はお化けかなんかだってえの?」  僕はむくれた。すると、彼女はさわやかな笑みを浮かべたまま、今度はちゃんと答えてくれた。 「あんたのおうちがどういうふうに言われてるかってえのは、なんとなくだけど知ってるわ。でも、こわがるほどたくさんは知らない。あいにく、ここいらのうわさ話にはうとくってね。越してきたばっかりなのよ、あたし」  紫さんは、少しだけ彼女の境遇を教えてくれた。  ――あたしには親がいないの。小さい頃に死んじまった。だから、親戚中をたらい回しにされてんのよ。それで最近ここに来たの。 「そんなだから、まだ家になじめなくってね。しょっちゅうお散歩してるわ。だから、道にだけはえらく詳しいのよ。……とはいえ、こんな時間までお外をうろついて、不良かもだわねえ、あたし」 「じゃあ、僕も不良?」 「あんたはただの迷子でしょうよ、京作ちゃん」 「じゃあ、おねえちゃんも迷子?」 「そうではないけど……そうねえ、そうなのかもしんないわ」  田んぼを抜けて、それから結構歩いた。何百何千というカエルたちの声が遠のいていき、やがて聞こえなくなった。聞こえるのは雨の音だけだ。  ろくに電灯も立っていない暗い道だったけれど、紫さんの足どりに迷いはなかった。一緒の傘の下、僕はもうすっかり彼女に心を許していた。  なにかくだらないことを話していて、ふたりしてアハハとひとしきり笑ったあと、涙をぬぐいながら紫さんが言った。 「ねえ、ありがとう京作ちゃん。こんなに楽しくって、こんなに心強いの、あたし本当に久しぶりよ!」  僕は首をかしげ、紫さんの横顔を見上げた。  すっきりと清潔で、明るい彼女の表情にはこのとき、ふっと重たげな陰がさしていた。 「……京作ちゃん。あたし、あんたのこと、本当にこわくなんかないわ。それどころかね、すごく頼もしく思っちまっているのよ。いけないことだってえのは、わかっているんだけれど……」  つないだ彼女の手から、寒くもないのに震えが伝わってきた。 「おねえちゃん、どうしたの。こわいの? なにがこわいの?」 「言えないわ。でも、こわい。本当は、あたし、いつだってこわいのよ。この町に来てから、いつもいつも、こわい目にあっている」  歩く先、道の端に電信柱がある。その隣に、ぼんやりと白い人影が見え始めていた。 「やっぱり、だめだわ」  紫さんは、もう笑っていたときの面影も失って、すっかり怯えた顔をしていた。 「今までずっと、隠してきたのに。あたし、絶対誰にも迷惑なんかかけたくなかったのよ。なのになんで、なんであんたみたいなちいさな子に言っちまったんだろう。誰にも誰にも、迷惑なんかかけたくないのよ」 「おねえちゃん、だいじょうぶ? ねえ、こわがらないで。あのね、あしたも、あさってからもずっと、僕がおねえちゃんのそばにいてあげるよ。それならこわくない?」 「だめよ、そんなの。京作ちゃん、あたしといたら、あんたまでこわい目にあうわ」  紫さんはどんどん早足になっていく。僕は必死に足を動かしてついていく。佇む白い人影は、もう僕たちのすぐ前方にいた。  柄の入った、白い浴衣を着た女の人だった。傘を持っていない。濡れそぼった長い長い黒髪が、だらりと足元まで垂れ下がっていた。  どうしてこんな雨のなかを突っ立っているのだろう。それもふしぎだったけれど、僕にとってそれ以上に奇妙だったのは、女性が身にまとう浴衣だった。  何匹かの金魚の泳いでいる様子だった。おとなが着るにしてはずいぶんと子どもっぽい柄だ。それが気になって、僕は長く目をとられた。  震える紫さんを励ますのも忘れて、雨に打たれる女性を気づかうことも思いつかないまま。  白地の金魚柄が真横までやってくるまで――見つめ続けて。  僕は、うおっと言った。  それから紫さんの手を力いっぱい引いて、めちゃくちゃに走りはじめた。  急にそんなことをしたから、紫さんの片手から傘の柄が抜けて、後方にすっ飛んでいってしまった。  それでも、僕はもう絶対に後ろを振り返らなかったし、戻る気もなかった。紫さんも同じだった。紫さんも見たのだ。  全身濡れながら、ふたりしてただ必死に逃げた。  その間、僕はもう馬鹿みたいにぶつぶつ言い続けていた。 「あの女の人、なんで体が透けてるんだ。なんで金魚柄が透けて、向こう側の電信柱が見えてるんだ」  ……というようなことを。  紫さんは幽霊のように青ざめて、なにも言わなかった。
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