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 翌日、僕は同い年で友だちの牛島(うしじま)義陽(よしひ)といっしょにバスに乗って出かけた。  バスのなかで、ひととおり義陽に話しておいた。  家を飛び出したこと。迷子になったこと。紫さんに出会ったこと。紫さんに助けられたこと。紫さんのリボンの色。紫さんが怯えていたこと。身体の透けたぶきみな女のこと。紫さんの傘を飛ばしてしまったこと。その後、ふたりでなんとか鬼瓦の家まで帰り着いたこと。 「僕はおねえちゃんといっしょにおふろに入って、サヨおばちゃんがおねえちゃんのために着替えを出してくれた。あとは、兄やさんたちが車を出して、おねえちゃんをおねえちゃんの家まで送っていってくれたんだよ」 「あはははは! おねえちゃんおねえちゃんと、おまえはすっかり紫嬢とやらに夢中だな京作!」  バスのなかでも、義陽(よしひ)はブカブカの学帽をしっかりとかぶったままだった。その帽子の下の面立ちはといえば、こんな幼いときからすでに、完璧に形を整えた宝石のように仕上がっていた。  そういうおそろしいくらいに綺麗な顔を、義陽はずいと近づけてきた。 「うふふ、京作め。おまえがそんなにも楽しかったのならば、俺もいっしょに風呂に入りたかったではないか」 「義陽とだったら、おふろ入るより川で遊ぶのがいいな」 「おおそうか、では今度川に行くぞ! 思いっきり暑い日に行こう! たくさん水を浴びて、泳いで、水切りと水鉄砲の練習をして、魚も捕まえような」 「うん」 「むう――しかし、そもそもなぜおまえはひとり寂しく迷子になどなっていたのだ? 最初から俺の家に来て、俺のところで泣いていればよいものを」 「やだ、やだよ。義陽と遊ぶのはいいんだけど、僕が義陽んちに行ったら、きっと義陽のおとうさんとおかあさんがすごくいやがるでしょう?」 「ふうん? では、今度からは俺のほうからおまえの家に参上するとしよう。おまえがもう、ひとりで泣いてばかりいないようにな」  ……それから十年以上に渡り、義陽は本当に、泣き虫だった僕が泣く暇も失うほど頻繁に鬼瓦への来襲をくり返すこととなるのだが……それはまた、別の話だ。  バスが目的の停留所に到着して、僕らは下車した。  地名でいえば、きのう僕が迷子になった場所と同じだ。平たい土地のずっと奥に、あの田んぼの群れがきらきらと日差しを反射しているのがかすかに見えた。  こうしてみるとなんのことはない。僕は暗いなかで脇道へ脇道へと逸れてしまったから、自分がどこにいるのか見当がつかなくなってしまったのだろう。  金魚柄の女性を見たのは、どのあたりだったろうか。それはよく覚えていなかった。覚えていたら、僕は紫さんの傘を探しに行けたかもしれないのに……。  バス停のあたりは何もない寂しいところだった。道の向こう側に古い民家が一軒あって、その後ろに鬱蒼と茂った雑木林が広がっている。それくらいのものだった。 「ここはおねえちゃんちの近くなんだって。僕ら、また会う約束をしたんだ。もうすぐおねえちゃんが来るよ」  ぐるりともう少しあたりを見まわして、僕は「あっ」と言った。ブラウスに、膝丈のスカート姿。さわやかにさらした輪郭、風に揺れる黒髪、深い桔梗色のリボン。  紫さんが歩いてくるのを待ちきれずに駆け寄った。紫さんも小走りになって向かってきて、僕らはお互い抱え合うようにしてあいさつをした。 「京作ちゃん、本当に来ちまったのね。あんた、昨晩はきちんと休んだ? 体はなんともない? 夏風邪なんかひいてないでしょうね」  迷子の僕を助けたときみたいに面倒見のいいことを言って、紫さんはにこにこと笑った。紫さんが昨晩のように怯えていないのを確認して、僕は心底ほっとした。  紫さんと義陽が自己紹介をし合った。 「好きなものにはとことん一途に向き合うって感じね。そういうのが一番だと思うわ、男の子って」というのが紫さんの義陽評。 「あなたは京作とはまた別の意味で、大変やさしい人のようだ」というのが、義陽の紫さんを見た感想だった。  三人ともまだ出会ったばかりなのに、なんだかわくわくするくらい意気投合して、この日はそのまま三人で遊ぶことになった。  僕は紫さんの両手をつかんで振って、カブトムシを捕まえに行きたいなどと主張した。  娘ざかりの紫さんに虫取りを強要するなんて、今思うととても恥ずかしい。けれど、彼女はいやな顔ひとつせずに「そうしましょう!」と言ってくれた。  義陽は、道の向こう側の雑木林を指差した。 「それならば、あそこの林で探してみるのはどうだ?」 「そうだわねえ……」  紫さんもうなずきかけて、顔をそちらに向けた。その瞬間。  ――僕は、つないだ紫さんの手が、一瞬ぞくりと震え上がったのを感じた。 「……いいえ。あっちの林は、やめときましょうか。ヤブ蚊がすごそうだわよ」  本当に、ただの一瞬のことだった。もう紫さんには怯えた様子など一切なくて、僕のほうが勘違いしたのかな、という気になってしまうほどだった。 「ねえ、代わりに、もっともっといいとこに連れてったげるわ! あそこはカブトムシもクワガタも、そりゃあもううじゃうじゃいるって聞いたことがあるのよ」  紫さんははつらつと明るい笑顔を振りまき、僕の手を引いて歩き始めた。僕はもう片方の手で義陽と手をつないだ。
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