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三
バス停から結構離れたところまでやってきた。そこにはちょっとした丘があって、僕らはそのなかに踏み入って遊んだ。
背の高い木が生い茂っていて、剛健な虫たちがたくさん集まっていた。僕たちにならって、紫さんもえいと木を蹴っ飛ばし、落ちてきたクワガタを捕まえていた。三人で虫を戦わせて楽しんだ。
野に咲く小さな花に紫さんが見とれた隙を見て、僕は義陽にこそこそと話しかけた。
「あのね義陽。おねえちゃん、元気そうでよかったね。僕、おねえちゃんを安心させてあげなくちゃと思って、義陽も呼んだんだけど、ちょっと心配しすぎだったのかなあ?」
「うむ、確かに紫嬢は元気そうに振る舞っている。だがな京作、彼女の本心はどうなのだろうな」
「ほんしんって?」
急に、ふっとあたりが暗くなった。
青空と太陽が、ものすごい早さで濃い色の雲に覆われていく。ドーンと雷がとどろいたと思った次の瞬間、ざんっと大粒の雨が僕らの頬を叩いていた。
「いけない! 京作ちゃん、義陽ちゃん、こっちに来なさい!」
紫さんがあわてて叫んだ。すぐさま僕らを両脇に抱えるようにして、丘のてっぺんまで連れて行く。
そこには古い木でできた、ほとんど廃屋みたいな建物があった。正面には鳥居と、朽ちた賽銭箱が置いてあって、壁にはボロボロの札も貼ってあった。無人の社だ。
紫さんは建物の戸に飛びついた。建て付けは悪かったものの、鍵はかかっていなかったらしく、力いっぱい引っ張るとギギィと開いた。
「やったわ。さあ、京作ちゃんに義陽ちゃん、早くここへ入んなさい!」
「……ばちがあたらないかなぁ?」
「ばかね。あんたたちみたいないい子の雨宿りも許してくれないってんなら、神さまなんてえもんはクソくらえだわよ」
僕と義陽、紫さんが中に入って、戸を閉じた。
紫さんは錆びた金具をガチャガチャといじって、しっかりとかんぬきまでかけていた。義陽はじっとその様子を見ていた。
僕はというと、自分と同じくらい小さな義陽の背中にくっついて、こわごわとあたりを見まわしていた。
姿の見えぬ雨が、今にも社を壊しそうなくらいに叩きつけている。
しんみりとして埃っぽい、決して広くはない一空間。その四隅それぞれに、誰がやったのかはわからないが、金字塔形の塩が置かれていた。
最後に、天井近くから僕らを見下ろす、おごそかな神棚を見た。雷が鳴った。とても直視できなくて、僕はますます義陽の両肩にしがみついた。
「紫嬢よりも、おまえのほうがよほどおびえているではないか。紫嬢を元気づけてやるのではなかったのか?」
義陽はうふふと笑い、汗と雨に濡れた僕の前髪を撫でつけた。
紫さんはもう扉から離れて、床の上にゆったりと腰をおろしていた。ふしぎそうな表情で首をひねる。しっとりと水を含んだ髪と、紫色のリボンもつられてななめになった。
「元気づける? あたしを?」
「うむ、そうだ。紫嬢、あなたは昨晩京作と歩いていたとき、なにかこわいものを見たのではないか? それで京作が、俺の愛する第一の友が、こんなにもこんなにも深く気に病むほどに……あなたは、ひどく怯えていたはずなのだ」
「……ああ。あの、白い女の人のことね?」
紫さんは両手で膝をかかえ、ちょっとだけ笑った。
「あれは、ねえ……。まあ、そうねえ。幽霊、ってえやつだわねえ」
「幽霊。ううむ、そのようなおぼろげな存在が、本当にこの世にいるものなのか?」
「義陽ちゃんたら。あんたの好きな京作ちゃんが見たって言ってるんでしょう? だったらそれ以上疑う気もないくせに、あたしに訊かれたってねえ」
聞きようによっては意地悪な紫さんの言葉だったけれど、その表情はおだやかで、やさしかった。そして、どこかうらやましそうな目で僕の顔を見ていた気がする。
「……あたし、あんたたちくらい小さいころに、一度火事で死にかけてね。お父ちゃんとお母ちゃんは死んじまったけど、あたしだけがたまたま助けられた。ただ、しこたま煙を吸っちまってたもんだから、何日か寝こんで……そのとき、なんだか変な夢を見てね。そして起きたら、ああいうぶきみな人たちが見えるようになってたのよ。こういう雨の日は、特にね」
紫さんは、結んだリボンが乱れていないか気にするように、そっと後ろ手をまわした。
「たぶん、一回死にぞこなったもんだから、そういう体質になっちまったんだわ。幽霊なんてえものが見える。そしてね、あたしと一緒に過ごした人にも、結構その見える体質が伝染っちまうみたいなのよ、風邪みたいにね。……でも、だいじょうぶ。京作ちゃんも、本当風邪みたいに、そのうち治って見えなくなると思うわ」
「……おねえちゃんは、オバケが見えてもこわくないの?」
「こわくないわ。慣れちまったのよ、もう」
からからと笑う。僕ばかりがこわがっているみたいで、不満だった。きのうはおねえちゃんだってあんなにこわがっていたくせにと、僕は頬をふくらませた。
その頬を、横から人差し指でつっついてしぼませながら義陽が言う。
「ううむ、とはいえ、見えなくなるまで京作だけを苦しませるのも酷な話ではないか? ――おお、そうだ! この俺もまた、あなたと何時間か過ごしてきたではないか、紫嬢。俺にももう、あなたから幽霊風邪が伝染ってきたかな?」
「そうねえ。確かめたいってんなら、もう確かめられるわよ」
紫さんは白いおとがいを引き上げ、扉のほうを指し示した。
僕らもそろってそちらを見た。どーん! という音がして、大きく戸が震えた。
一度ではない。その音と衝撃は、不安定なリズムでもって間断なく続いた。
立て続けの音とともに、扉がきしむ。差しこんだかんぬきが、今にもぶっ壊れそうなくらいの悲鳴をあげた。
「……雷の音、じゃない」
僕は蒼白になって、義陽の腕にしがみついた。
「戸を叩いてる」
いったい誰が。遊んでいるときには、周囲に人の気配など感じなかったというのに。
それに、なぜこうも無言で戸を殴りつけてくるのだろうか? 誰にせよ何にせよ、雨宿りがしたいから入れてくれだとか、用があるのなら言えばいいではないか。
僕はへっぴり腰になって義陽を揺さぶった。
「義陽、ねえ義陽! どうしよう、誰かが外にいて、戸をどんどん叩いているんだよ」
「ううむ、そのようだな京作! では、どうれ、叩いているやつを見てみようではないか」
義陽は平然とした顔で、信じられないようなことを言った。
僕は勢いよく紫さんを振り向いた。紫さんは肩をすくめて言った。
「義陽ちゃん、いい? 扉は絶対に開けちゃあダメよ。見るんなら、必ず隙間から見なさいね」
止めてはくれなかった……全然。
僕はこのまま義陽につかまっていたいし、でも一緒に外なんか見たくもないしで、動転のあまり硬直してしまった。
そんな僕をおんぶするように義陽は歩いていき、振動する扉の前で立ち止まった。その間にも、叩く音は苛烈さを増し、ぶわっと鳥肌の立つ殺気さえ感じるほどになっていた。
腐敗したのか虫に喰われたのか、薄っぺらい木戸には、ところどころに細かい穴があいていた。
そのうち一番大きなものに、義陽は目を寄せた。自然、僕も同じところを見る体勢になった。
……数秒後。
義陽と僕は弾かれたみたいに身をひるがえし、紫さんのところまで駆け戻っていた。
一斉に腕のなかに飛びこんできた僕たちの背中を、紫さんはまとめてよしよしとさすってくれた。
「どう? なんかいた? 義陽ちゃん」
「いたぞ!」
まず義陽が顔を跳ね上げた。色素の薄い大きな瞳がいっぱいに見開かれて、純粋な驚きに燦と輝いていた。
「大きな武者だ。傷だらけの甲冑を着て、凄まじい顔をして、折れた刀を持っていた!」
「そう。そんじゃあやっぱり、戸を開けちまうのは危なっかしい感じだわねえ。京作ちゃんは、だいじょうぶ?」
僕も顔を上げた。僕の、いつも片方だけあけている黒い目をしげしげと見つめて、紫さんはおかしそうに吹き出した。
「あんた、ふしぎな子ねえ。見るまえはあんなにこわがってたってえのに……。でもまあ、あんたって子は、昨晩もそうだったのよねえ。見ちまったもんは見ちまったもんで、人並みにびっくりはするんだけど、そのあとはもう、こわがったりはしなくなるんだわ」
相変わらず戸は殴られ続けていて、その衝撃のあまり、社全体が大きく揺さぶられるようだった。
互いに抱きしめ合った僕らのうち、義陽が不意に声をあげた。
「――寝るぞ!」
「えっ?」
「寝るぞ、と言ったのだ。京作、おまえも眠れ! 昼寝だっ。さあさあ眠れ!」
理解が追いつかない僕を置き去りに、義陽はさっさと長いまつげを伏せて目をつむってしまった。
「……そうだわねえ」
驚くべきことに、今度は紫さんまで小さくあくびをして、瞳をとろんとさせた。
「こうして起きてたって、どんどんとうるさいだけだし、なんにもすることないんだもの。いっしょに寝ましょ、京作ちゃん。ね。おやすみ」
僕と義陽を抱えたまま、紫さんはころりと床に寝ころんでしまった。
すぐそばでふたりの寝息を聞いていたら、そのうち、なんだか僕もまぶたが重くなってきてしまい――やがて意識を手放した。
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