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死
そのまた翌日も、僕と義陽はバスに揺られていた。その日も、紫さんと会う約束を交わしていたのだ。
ただ、僕はえらく落ちつきを失っていた。足をそわそわ動かしながら、今にも泣き出しそうな顔をして、雨粒の付着した車窓を見つめていた。
「どうしよう、どうしよう……こんなに遅れるなんて」
「京作、おまえのせいではないよ。紫嬢ならば許してくれるさ……」
義陽がそう慰めてくれたが、到底気は休まらなかった。紫さんとの約束の時間から、僕はもう四時間も遅刻していたのだ――。
前日の顛末から述べねばならない。といっても、それ自体には特に語るべきこともない。
僕らがあの社のなかで目覚めたとき、もう辺りは静けさを取り戻していた。夏の星がまたたく下、僕たちは何事もなく丘を降り、家路についたのだった。
しかし、二日連続で遅くに帰ってきた僕には、さすがに世話役からの苦言が待っていた。その監視の目を盗んで、きょうまた家を出るまでに、大変な時間を費やしてしまったのだ。
その間、一度激しい雨があった。
降り始めはちょうど、待ち合わせの時刻と重なった。雨はしばらく続いて、そして僕らが出てくるころになって、ようやく止んでいた。
「おねえちゃん、まだ待っていたらどうしよう? おねえちゃん、傘を持って来ていないかもしれないんだ。だって、おととい、僕のせいでおねえちゃんは傘をなくしちゃったんだよ。おねえちゃんがびしょ濡れになって、悲しい思いをしていたら、どうしよう」
「おまえのせいではない」
僕が泣きべそをかいても、義陽は根気強く、その言葉をくり返した。
停留所に到着して、僕らはバスから飛び降りた。
もう夕方にさしかかっていた。
寂しい場所。ぐちゃぐちゃに濡れた地面。道の向こうには、古い民家と、暗い雑木林が見えている。
紫さんは――どこにもいなかった。
そのことに、僕は強い違和感を持った。
「義陽、おかしいよ。だっておねえちゃんは、いくら自分がずぶ濡れになったって、いつまでもずうっと僕らを待っていてくれるような人だよ。ねえ義陽、そうでしょう……?」
「おまえがそう信じるのならば、そうなのだろう」
義陽はうなずいた。彼は深く学帽をかぶり直し、うつくしい目に鋭く宿りかけていた表情を、僕から隠すようにした。
「探しにゆこう。紫嬢を」
僕らは道を歩きながら、紫さんの姿を探し、紫さんの名前を呼んだ。
人に会えば、紫さんを見なかったかと尋ねた。見ていない、という返事ばかりだった――それどころか、紫という少女が最近越してきたこと自体、ちゃんと知っている人はひとりもいなかった。
僕らは紫さんを探すとともに、彼女の住まいを突きとめようとしていた。やっぱり僕らの遅刻に呆れて、もう帰ってしまっているのかもしれないから。けれど、出会った住人たちのだれもが、そういう家は見当もつかないと言った。
初めて会った夜、彼女自身が言っていた通りだった。彼女は……あんなに明るく笑う紫さんは、本当にちっともこの土地の人々になじんでおらず、誰にも迷惑をかけないよう努めて生きていたのだ。
幼い僕はそれを実感するにつけ、つないでいた義陽の手を強く握りしめた。
きのうの丘までやってきて、一本一本の木の陰から、頂上の社の中までくまなく探した。でも、紫さんの気配をつかむことすらできなかった。
とっぷりと陽が暮れたころ、僕と義陽はバス停のところまで戻ってきていた。そこにもやはり、紫さんの姿はなかった。
「……なあ、京作」
「いやだよ……! 僕、おねえちゃんを見つけるまでは、ぜったいに帰らない!」
僕は叫び、肩に置かれた義陽の手を振り払った。
バスのなかでも、紫さんを探しているときにも、義陽はずっと僕の横にいた。だから、そうして喧嘩腰で向かい合ったとき――僕は、ひょっとするとその日初めて、義陽の顔をまともに見ることになった。
「……どうしたの? どうして、そんな顔をしているの? 義陽……」
言われた義陽は、学帽の頭を片手で抱えるようにして、深く深くうつむいた。
黒い曇天が、僕たちの頭上から重くのしかかってきていた。
「……なあ、京作。あのひとは、紫嬢は本当に、幽霊なんぞをこわがっていたと思うか?」
「そうだよ。きのうは、こわくないなんて言っていたけれど、おねえちゃんは、本当はとてもこわがっていたんだ。すごく震えていたんだよ。僕は、知ってるんだ……」
雨のにおいがした。それとともに、僕のなかの記憶が色濃くよみがえってきた。
迷子の僕を、傘に入れてくれた紫さん。
生き生きと輝く黒髪。名前と同じ色のリボン。
僕がそばにいると心強い、頼もしいと笑ってくれた紫さん。
でも、このまま一緒にいてはだめだとも言った。自分と一緒にいては、僕までおそろしい目にあうからと。
おねえちゃん、なにがこわいの?
――言えないわ。でも、本当はあたし、いつだってこわいのよ。この町に来てから、いつもいつも、おそろしい目にあっている。
――誰にも言ったことなかったのに。あたし、本当に、誰にも誰にも迷惑なんかかけたくないのよ。
「こわいのは、この町に来てからだと……そう、言っていたのだな。紫嬢は」
うつむいたままの義陽が、静かに確認した。
「紫嬢が幽霊を見る体質に変じたのは、最近のことではない。火事で死にかけたという幼少期から、ずっとだ。だから、幽霊にはもう慣れてしまった、こわくないと言っていたのは、おそらく本当のことなのだろう」
義陽は、帽子を手で押さえつけるのをやめた。
ぽつぽつと、糸のような雨が降り始めていた。
「紫嬢には、幽霊ではない……なにか他に、もっともっと恐ろしいものがあったのだ。……彼女は、おのれに迫りくる危機を、察知していた」
自分の顔から血の気が失せていくのがよくわかった。
むっとするほど暑い夏の夜だというのに、指先がとても冷たかった。
「きのう、俺は紫嬢にこう尋ねた。あなたは京作と歩いているとき、なにかこわいものを見たのではないか? ――紫嬢はすぐに、女の幽霊のことを言った。しかしその一方で、幽霊はこわくないとも言った。……わかるか京作。紫嬢は、はぐらかしたのだ。問いには答えていなかったのだ。何がこわいのか? ――おまえが問うても、俺が問うても、答えようとはしなかった。彼女は、幼い俺たちに心配をかけまいとしたのだろう。……そのやさしさゆえに」
「……義陽……。もういいよ。早く、もう一度、おねえちゃんを探しにいこう……?」
「……京作」
雨はあっという間に激しさを増してきていた。
ぬるい雨粒のしずくを滴らせながら、義陽がわずかに顔を上げた。
「京作……聞け。これ以上はだめだ。もう俺たちの手には負えん。あとはおとなたちに委ねよう」
「いこう」
「京作」
「いかなくちゃ。早く、早く、おねえちゃんを見つけなくちゃ……」
「京作。京作、頼む、いうことをきいてくれ……京作」
「僕、いっしょにいてあげるって言ったんだ。あしたもあさっても、それからもずっと。おねえちゃんがひとりぼっちで、こわがったりしないように。だから」
「京作ッ!」
義陽が吠え、振りかざした腕で己の学帽を弾き飛ばした。
うつくしく燃えるまなざしを露わにした義陽は、射抜くような力をこめて僕を見て――。
それから不意に、はっと大きく息をのんだ。
僕はうしろを振り返った。
夏の雨に溶けこむように、紫さんが、やさしい微笑を浮かべてたたずんでいた。
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