25人が本棚に入れています
本棚に追加
「おねえちゃん!」
僕は力いっぱい紫さんに抱きついた。紫さんはしっかりと受けとめてくれた。
紫さんの身体は、頭からつま先までぐっしょりと濡れていて、とても冷たくなっていた。
僕の背を撫でる、しんと冷え切った青白い指先。たおやかな仕草そのものだけが、本当に、苦しくなるほどにあたたかかった。
「――京作ちゃん。ありがとう、あたしを探してくれていたのね」
ごめんなさいごめんなさいと、僕は泣きじゃくりながら謝った。
紫さんの傘をなくさないようにすればよかった。紫さんがこんなに濡れてしまう前に、早くここに来ていればよかった。
「いいの、もういいのよ京作ちゃん。そんなことよりもね、あんたがこんなにもあたしのことを好きでいてくれていたってえことがうれしいの。……この町に来て、こんなすてきな友だちができて……あたし、本当に、うれしく思っているのよ」
友だち。
僕のことを紫さんがそうはっきりと言い表してくれたのは、それが初めてだった。
涙をぬぐうのも忘れて紫さんの顔を見上げた。
明るく笑う瞳。きれいにさらした輪郭。しっとりと背中に流した黒髪。――ああ、だけど。
紫さんは、名前と同じ色に染められた、あのきれいなリボンをつけていなかったのだ。
「……おねえちゃん。リボン、どうしたの?」
「そうねえ。ほどけて、どっかに落としてきちまったみたいだわ」
「なら、僕、探しにいく。ぜったいに見つけて、おねえちゃんのとこに持っていってあげるよ」
「ほんと? すんごくうれしいわ、ありがとう。――でもね、もう、いいのよ……」
ぽんぽんと僕の背中を叩いて慰めたのち、紫さんは義陽のほうを見た。
僕は紫さんに抱きついていたから、うしろにいる義陽の表情はわからなかった。紫さんの様子だけ見えていた。僕に向けていたものとは、少し種類の違う笑みだった。
「……義陽ちゃんも、ありがとう。よくがんばったわね。あんたみたいな子が京作ちゃんについてくれていて、よかった。あんた、本当に、京作ちゃんのことを大事に思っているのね」
義陽はなにも言わなかった。
僕とは違い、まるで紫さんと言葉を交わすのを拒んでいるかのような……義陽らしくもない、そういうかたくなな雰囲気がこのときの彼にはあった。
「……あたしが伝染しちゃった幽霊風邪なんてえもんは、あんたにはまったく余計なことでしかなかったみたいだわね」
紫さんは、素朴なかたちの眉をハの字にしてみせた。
「義陽ちゃんはさ、幽霊なんてヘンテコなもんが見えなくったって――あんたには最初っから、物事がよぅく見えちまう目がくっついていたんだね。あんたにとって酸いも甘いも関係なく、うれしいも悲しいも関係なく、ただひたすら、ありのままを見通せちまう目。……強いね。義陽ちゃんは強くって、頭がよくって。京作ちゃん思いの、本当にいい子」
僕を雨から守るようにして抱いていた紫さんの腕が、ふうっと離れていった。
冷たくなってぼんやりと立ちすくむ僕の右手を、隣からあたたかい手のひらが包みこむ。見ると、泥のついた学帽をすでに拾い、元どおり頭に乗せた義陽がいた。
僕と義陽の目線を受けて、紫さんはもう一度微笑んだ。
「あんたたち、もう帰らなくっちゃならないわ。次のバスが来たら、きっと乗って帰んのよ。……でも」
白く細い腕が、ふわりと伸ばされる。
その指先が示すのは、道の向こう側の、あの古い民家だった。
「バスが来るまで、しばらく時間があるでしょう? そのあいだ、ずっとここでじっとしてたんじゃあ、あんたたち、かわいそうな濡れねずみになっちまうわ。……だからね。京作ちゃん、義陽ちゃん、今からあのおうちに訪ねて行って。おばあちゃんがいるから、その人に傘を二本ばかし貸してもらいなさい」
それを聞くなり、義陽が黙ったまま、僕の手を引っぱって道を渡り始めた。
僕は歩きながら、何度も紫さんを振り返った。紫さんだって、僕たちなんかよりずっとずぶ濡れなのに、そこに突っ立ったまま、ついてこようとはしなかった。
「――だけどね――」
暗闇のなかに、紫さんがひとり取り残されてゆく。
歯切れよくさわやかで、耳に心地よいあの声音だけが、最後に僕らの背中へと投げかけられた。
「――だけどね。もし、もしも男の人が出てきたってんなら。そのときは、あんたたち、きっと親切は受けられないわ。傘なんか借りられっこない。決して、むりにふんだくろうとしてはだめよ。そうですかって、ぺこんとおじぎして、濡れたってしかたないわ、すぐに走って逃げちまいなさい。きっと、きっと、約束よ。いいわね。わかったわね――」
雑木林がざわざわと揺れていた。
義陽が僕の手をつかまえたまま、とんとんと玄関の戸をたたく。出てきたのは、ふくよかな、六十路がらみの女性だった。
「夜分失礼」
女性から僕の姿を隠すかのように、義陽はぐいと前に進み出た。
「僕らは今から家に帰るところなのだが、このとおり、雨に降られてしまいました。まことにぶしつけながら、傘を二本、お借りしても?」
「ええ、ええ、もちろん。持っていきなさいナ。ああ、ああ、今、からだ拭くもんも持ってきてあげるからネ」
「いや、傘の二本だけで構わんのです。どうもありがとう」
どうして断るの? 手ぬぐいでもなんでも、もらっておけばよかったんじゃないの? おねえちゃんのために。
僕は、ともすればそう言ってしまいそうだった。しかし、義陽のぴんと伸びた背筋に「おまえはすっこんでいろ」と書いてあるような気がして、結局黙っていた。
傘を受けとると、義陽は礼もそこそこに、また僕の手をとってバス停まで引き返し始めた。二本の傘はひらかぬまま、彼がまとめて抱えていた。
停留所の前で立ち止まって、義陽がちらりと後方を見た。
もう女性は戸を閉めて、家のなかに戻ってしまっている。それを確認してようやく、義陽は片方の傘を僕によこした。
僕は傘をひらいた。黒い傘は大人用で、とても重たかった。
少しふらつきながらも、きょろきょろとあたりを見回した。紫さんがどこにもいなくなっていた。
「義陽! たいへんだ、おねえちゃんがいないよ! どこいっちゃったんだろう」
「……そうだな、京作。あのひとは、今……どこに、いるのだろうな……」
義陽は傘をひらきもせず、シトシトと雨に打たれていた。
その横顔はひどく沈んでいた。ただ、口ではどこにいるのだろうと言いながらも、義陽にはもう紫さんを心配する様子も、探すそぶりもなかった。
重たい傘を両手で掲げながら、僕は必死であちこちに目を投げた。傘に小さな穴でもあいていたのか、僕が身動きするたび、生ぬるいしずくが頬のあたりにぼたぼたと落ちてきた。
道の反対側、女性が出てきた民家の後ろに広がる雑木林を見つめていたら、僕は急に思い出した。きのうの昼間、ここで僕らと紫さんがじゃれあったときのことを。
京作ちゃん、これからなにして遊びたい?
僕、カブトムシを捕まえたいな。
それならば、あの雑木林で探すのはどうだ?
義陽が何気なく指差した雑木林。
それに目を向けたとき、その瞬間。
そうだ。あのとき、僕は見た。
楽しげにしていた紫さんの笑顔が、急に凍りついたのを。
僕は、感じた。
握った紫さんの手が、ぞくりと震え上がったのを。
――あたし、本当は、いつだってこわいのよ。
――この町に来てから、いつもいつも、こわい目にあっている。
「……あそこ」
雨漏り傘を握りしめて、片頬をたくさん濡らしながら、僕は足を向けた。
暗い暗い、寂しい雑木林を見つめて、歩き出す。
「京作?」
気づいた義陽に引き止められる前に、僕は全力で走り始めた。
「京作!」
義陽が追いかけてくる。
しかし、伸ばされたその手に捕らえられるより先に。
道を横断し、民家をかわして、林のところまでやって来た。
ためらいなく突入する。しかし、狭い木々の隙間を駆け抜けようとしてすぐに、僕はなにかに足をひっかけて転んでしまった。
「京作……! 京作!」
追いついた義陽が、泥にまみれた僕を助け起こした。
地面はぬかるんで柔らかくなっていたから、僕は盛大に服を汚しただけで、痛いところはどこにもなかった。
互いに大きく息を乱していた。叱りつけようとしたのか、義陽が乱暴に僕の両肩をつかんだ。強い瞳でまっすぐに顔を見て――うっ、とうめいた。
「……京作、おまえ……?」
義陽は僕の頬に手を伸ばした。傘の雨漏りのせいで、べたべたに、生ぬるく濡れてしまっていたところだ。
そこに触れられて、ずずずと親指でぬぐわれた。雨の香りとは違う、つんと鼻を刺すようなにおいがした。
しかし、僕はそれには構わず、自分の足元を見下ろしていた。
木の根っこにでもつまずいたのかと思ったけれど、足にまとわりついていたものは、そういった自然物とは異なっていた。
僕はそれを拾い上げた。
ずぶ濡れで、泥だらけで、ところどころに赤い汚れも染みこんでいたけれど――それは。
それは。
「京作」
僕が転んだ拍子に投げ捨ててしまっていた傘を、義陽が拾って持ってきた。
へたりこんだままの僕のそばまで来ると、真っ黒な男物の傘を、義陽はゆっくりとたたんだ。その様子を、僕は呆然と見ていた。
傘には、雨漏りの穴などあいてはいなかった。僕の頬を濡らしていたのは、もともと傘の内側に付着していた液体だった。それは、真っ赤な色をしていて、鉄のにおいをただよわせていた。
僕は。
……僕は。
「……京作」
泥の上に義陽が両膝をつき、僕の身体を抱きしめた。
「もうすぐ、バスが来るよ。帰ろう。いっしょに帰ろうな。……京作に、もうこれ以上進んではいけないと、林の奥を見てはいけないと、あのひとが教えてくれたんだよ」
僕は、血に染まった桔梗色のリボンを取り落とした。
そして……こぶしを、にぎりしめた。
(あのひとの傘を、なくさないようにしていればよかった)
みしみしと、手の骨がきしんだ。
(もっと早くバスに乗って、あのひとに会いにきていればよかった)
雨にふやけた皮膚は、あっという間にやぶけて血を流し始めた。
肉へ突き立てているうちに、やわらかい子どもの爪はみんなめくれあがって剥がれたり、割れたり、裂けたりした。
僕が、もうそれ以上のことをできぬように。
己の内側に発生した、おぞましく真っ赤で狂暴ななにかを渦巻かせるあまり、自分自身をそれ以上傷つけてしまわぬように。
固く固く、僕の身体を全身で抱きしめて拘束しながら――。
「京作は、わるくない」
義陽は最後に、やさしくこう告げた。
「京作は、ちゃんと見つけたんだよ。雨のなか、ひとりぼっちで迷子になってしまったあのひとを、こうしてちゃんと、見つけてあげられたじゃないか――」
僕は両目をあけて夜空を見上げていた。
暗闇の向こう側から、おだやかに降りそそいでくる夏の雨。
見えるのは、ただそれだけだった。
最初のコメントを投稿しよう!