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 じんじんと太陽の照りつける、思いっきり暑い夏の日だった。  義陽(よしひ)が意気揚々と鬼瓦へやってきて、僕にこう言った。 「京作! きょうは凄まじく暑いぞっ。約束していた川遊びにゆこうではないか! なあーに、そんな包帯まみれの両手でも、なるべく濡らさんように注意して遊べば大事はあるまい!」  ふさぎこんで寝ていた僕は、明確な言葉すら発さず、赤ん坊のようにむずがった。  すると義陽は「ふうん?」と一度宙を見て、それから、本当になんでもないことのようにこう告げた。 「では京作。川の前に、紫嬢にでも会いにゆくとするか」  僕はひとつ眼を丸くした。  が、聞き返す隙も与えられなかった。義陽はむんずと僕の手首をつかんで引っぱり起こし、元気よく外へと連れ出した。  屋敷の前に自転車が一台停めてあった。  あれはたぶん、義陽の父親あたりの自転車を勝手に持ってきたのだろう。大きくて、どう見ても大人のものだった。  しかし義陽は、僕を後ろの荷台に置くと、子どもながらすらりと長い脚をペダルに乗っけて、平気で道へ漕ぎ出していってしまった。僕はあわてて義陽にしがみついた。  身体に合っていない自転車と、僕という重い積み荷に翻弄されて、義陽の運転はめちゃくちゃだった。それでも義陽は一瞬たりともためらわないし、迷ったり恐れたりもしなかった。僕を乗せて、熱い日射に輝く道を突き進んでゆく。  曲がり角も、でこぼこ道も下り坂も、義陽は全然ブレーキをかけなかった。僕がぎょっと身をすくめたり、悲鳴と怒号をあげて抗議したりするたび、彼は大声で笑った。  日陰のない、平らな田舎町。どこまで行っても太陽は頭上にあり、肌を痛いくらいに焼いたけれど、額を流れて目にしみる汗は、僕らの前進が作る激しい風に吹き飛ばされていった。  ようやく自転車が止められたのは、小さな寺の門前だった。  僕たちは自転車を降りて、静かな境内に入っていった。義陽に先導されるまま、本堂の脇にある墓地へと進んだ。  義陽が立ち止まった。その墓には、きれいな桔梗の花が供えられていた。  しばしの沈黙ののち、僕はつぶやいた。 「ねえ、義陽。全然だめだ。僕、おねえちゃんに会えた気がしない。こんなのは、もう、おねえちゃんなんかじゃないよ」 「そうだな、京作。そうかもしれん」  僕の隣で、彼はそっとこう言った。 「しかしそれでも、人は墓を築くのだ。ずっと大昔からそうしてきたし、これからもきっと、やめようとはしないのだろう」  ……じゃり、じゃりと、誰かが通路を歩いてくる音がした。  振り返ると、とても小柄な老婆が、桶と、新しい桔梗の花束を手に立っていた。  義陽はゆっくりと背筋を伸ばし、老婆に一礼した。 「ああ……あんた、義陽ちゃん。こないだは、どうもありがとうね。またお墓参りに来てくれたんだわねえ」  老婆はほのぼのと笑い、またこちらに向かって一歩ずつ進んできた。  危なっかしいその姿に、僕は反射的に駆け寄っていた。水の入った桶を支え、小刻みに震える皺だらけの手に触れる。そのまま桶を引き受けると、老婆はまぶしそうに僕の顔を見た。  名乗るべきだったが、僕は身をこわばらせて逡巡した。そのとき。 「――鬼瓦京作」  義陽が僕の名を口にした。 「紫嬢の、大切な友人です」 「……そお。そうなのねえ」  老婆は、垂れた目尻から口元まで、しわしわとやさしく微笑んだ。  墓石の前で、三人並んで線香をあげた。老婆は一番長く手を合わせていた。  やがて目をあけると、僕に向き直り、「あたしはね、紫さんのおばあちゃまの、そのまたおにいさんの、そこんとこに嫁いできたばあば、ってえもんなのよ」と言って、笑った。 「紫さんはねえ。本当は、お父さんお母さんと一緒のお墓に入りたかったかもしんないわねえ。だけど、そんな遠くに行かせちまったら、あたしったら、こんなばあばなんだもの。こういうふうに、お墓参りにも来られなくなっちまうでしょう? だからね、うちのお墓に入ってもらうことにしたの」  老婆は目を和ませ、濡れて涼しくなった墓石をやさしく撫でた。 「ねえ、紫さん。ばあばももうすぐ、そこに入りますからね。それまで、おじいちゃまをよろしくね。ばあばが行ったら、みんなでずぅっと一緒に、なかよく暮らしましょうね」  義陽が小さく僕の肩をたたいた。未練なく墓に背を向け、寺の外へと歩き出す。  老婆の曲がった背中に頭を下げると、僕もまた踵を返した。  ――紫さん。  紫さんは、どうして誰にも助けを求めようとしなかったのか。  何者かにつけ回されているようだと、ひとこと誰かに相談さえしていれば。そうすれば、ひょっとしたら、未来は変わっていたかもしれないのに。 「やさしい、やさしい子だったのよねえ。血もつながってないばあばに、迷惑かけちまったらだめだって、そう思ったのよね。紫さん、あんた、言ってたわよね――」  ねえ、おばあちゃん。あたしって、どうやら、人を笑顔にできるような人じゃあないみたいなの。  だって、あたしのそばにいると、みんな、みんな悪い目にあっちまうのよ。こわいもんを見て、いやな夢にうなされるようになるんだわ。  だから、だからねえ。あたし、毎日毎日お外をぶらぶらしてるわ。誰にも迷惑かけないように、誰とも知り合いになったりしないように、できるだけ気をつけてお散歩するのよ。  おばあちゃん。あたしって、家の手伝いもろくすっぽやらない、こんな恩知らずの、不孝行娘ってえやつなんだからね。おばあちゃんもあたしに、あんまり親切にしてはいけないわ。本当に、おねがいよ。  近所の人にも、あたしが来たってこと、なるだけ内緒にしておいてほしいの。本当にあたし、誰にも誰にも迷惑かけたくないの。  おねがい。ねえ、おねがいよ。 「だけど、紫さん。あんた、近ごろ、とってもうれしそうだった。どうしたのって聞いたら、あんた、とびっきりいい顔をしてたわねえ」  ――おばあちゃん。あたし、実は、友だちができたの。きょうもこれから、遊びにゆくのよ。  あの子たち、ふしぎだわ。あたしといて、こわいもんも見るようになっちまったってえのに、笑ってくれる。あたしに懐いて、かわいいお顔で、たっくさん笑ってくれるのよ。  あたし、うれしいの。  あたしがここにいるってこと、生きているってことを認めてもらえたような……まるで心が生まれ変わったみたいな、そんな幸せな気分なのよ。  ああ。  あたし、生きている。  生きている。あたし、生きているんだわねえ……。
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