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 僕の物語は、ひとまずこれでおしまいだ。  秘めたる物語。  本当に、今まで誰にも明かしてこなかった過去を、僕はあなたに語ってきた。  なぜ、と。  あなたは僕に問うだろうか。  ……うん。  もうここまで語ったのだ。この期に及んで適当にはぐらかすような真似はするまい。  時が過ぎ、三十二という齢を迎えた僕は、急に――本当に突然、誰かに紫さんのことを伝えたくなったのだ。  紫さんという少女について、僕自身、多くを知っているわけではないけれど。  それでも、僕が出会った彼女を、誰かに知ってほしくてたまらなくなった。  いい歳のおとなになってようやく、感傷にひたる余裕が出てきたのかもしれない。彼女を知る人間があまりにも少なすぎるという事実に、ふと思い至った。  ……たとえば、二十五年前のあの日、凶行に及んだ男。  あれほど紫さんに執着したその男は、逮捕当時すでに精神を病んでいたに近かった。その影響か、取り調べの席で異常なほど詳細な供述を済ませたあと、獄中で死んだという。  件の母親などは、どこかの病院に引き取られはしたものの、肺炎かなにかに罹って息子よりも早く亡くなったらしい。  紫さんの墓の守り人、あの老婆も、数か月後にひっそりと他界した。望み通り、紫さんと同じ墓に埋葬されている。  そして、牛島(うしじま)義陽(よしひ)――。  あいつも、いなくなってしまってから本当に久しい。満州で戦死。二十二歳だった。  気づけば僕は、紫さんの墓に花を手向ける最後の人間となっていた。  いずれ僕が死ねば、紫さんを、あの明るい笑顔を知る者はいなくなるのだ。  そう考え始めたら――あなたに語らずにはいられなかった。  僕の罪を、紫さんを死に追いやった負の作用をも、同時に知られることになろうとも。  たくさんの人に向かって、大声で話せるような物語ではなくとも。  それでも、せめてあなたにだけは語らずにいられなかった。  あなたはなにか思っただろうか。感じるものがあっただろうか。  ただ、勝手ながら、それは僕にとって重要なことではない。過去を追想し、こうして語り終えた今でもやはり、僕の考えは少しも変わってはいないから。  人は、死ねばそれですべておしまいだ。  人の魂だとか幽霊だとか、そんな不確かなものを信じる気にもなれない。  この物語を通じて伝えたかったのは、決してそういうものではないのだ。  本当に、ただひとつ。  ――彼女は確かに、生きていた。
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