1.睦月【千景】

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「その調子だと、どうせ名前も覚えてないんだろうから改めて自己紹介しておく。──桐原輔(きりはらたすく)、S大で弓道部の顧問をしてる」 「……桐原さん、今日は何でここに?」  よろしく、とおそらくは握手のために差し出された手を一瞥して、けれどそれには応えず質問を重ねる千景に、あれ、ずいぶん嫌われちゃったな、と桐原が困ったふうに首すじに手をやる。 「いや、どうしてももう一度見ておきたくて。インターハイで入賞までしておきながら、惜しげもなくうちの推薦を蹴ったっていう萱島(かやしま)千景っていう生徒をさ」 「……その話ならもう、担任とも相談してなかったことになったはずですけど」  いくらスポーツ推薦枠でとは言え、他県の大学であるS大に通うにはそれなりの経費が必要になる。担任である貫井(ぬくい)の話では専用の学生寮もあるということだったが、病気がちの母親をひとり残してそちらで新生活を始めるのは、千景にとってはやはりあまり現実的な話ではなかった。  ──本当にいいのか、断ってしまって。  あのとき、生徒指導室で机を挟んで向き合いながら、無表情ななかにも千景に対する気遣いを覗かせた貫井のすがたを、彼のトレードマークである白衣の肩越しに薄い三日月が見えていたことも、まるで昨日のことのように鮮明に思い出せる。  ──今のおまえの成績なら内申書の点でも問題ないし、いざとなれば奨学金も利用できる。もう一度、家に持ち帰ってじっくり考え直してからでも──……。  ──いえ、もう決めたことですから。
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