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と、いつの間にか物思いに沈んでいた意識を、桐原の声に掬い上げられて顔を上げる。何も、と応じかけた声がはからずも揺らぐのを感じ、千景は桐原に見えないようにそっと唇を噛む。
──分かっている。この男はきっかけに過ぎない。
もし、桐原が自分たちの前に現れなかったとしても、いずれ、千景の抱く鬱屈はふたりのあいだに決定的な溝を生み出していたに違いなかった。
「何も──別に何もありません。それだけでしたら練習に戻ります」
思えば、自分と貫井をつないでいたのは、何ひとつ確証のない、曖昧模糊とした恋愛感情という名の標(しるべ)だけだった。それでも、その標を頼りに、貫井とふたりならば、たとえ薄氷(はくひょう)を踏むかのごとく危うく険しい道のりも乗り越えていける。──そう信じていたのは千景だけだったのだろうか。
「──萱島は、弓道においていちばん大事なことは何だと思う?」
そのまま、弓道場に戻ろうと背を向けた千景にふいに桐原が問うてくる。個人的な質問ならば無視して通り過ぎてしまうこともできたが、指導者としての彼の言葉にはやはり立ち止まらざるを得なかった。
「大事なこと……つねに平常心を持って的に向かうということですか?」
「うん、それもあるな。弓道とはすなわち射手の心を映す鏡だ。だから、いかなるときでも精神のコントロールが必要になる。──でもな、これはあくまで俺個人の見解だが、それだけでは真の意味での一流の競技者にはなれない」
「……じゃあ、いったいどうすればいいんですか」
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