1.睦月【千景】

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1.睦月【千景】

 しんと張りつめた一月の早朝の空気を頬に感じながら射位に立つと、白足袋を履いた足もとから立ち上る冷気が、どこか気だるさを引きずったままの意識をふいに覚醒させた。  足踏み、胴造りという基本姿勢を経て、弽(ゆがけ)と呼ばれる皮の手袋をはめた右手で保持した矢と弦を、左手で支えた弓とともに持ち上げたあとゆっくりと右頬の脇でつがえる。いわゆる会(かい)という状態でぎりぎりまで引き絞った矢が、やがてすべてを解き放つように手もとを離れ、空気を切り裂き的を射抜くこの瞬間が千景(ちかげ)は何よりも好きだった。 「──おお、さすがは元主将。引退しても腕はなまってないみたいだな」  と、誰もいないはずの背後から声を掛けられ、ようやく残身(ざんしん)を解いて振り返る。弓道場の奥、腕を組み背中を壁に預けるようにして佇む長身の男が、千景を見つめてやけに楽しそうに笑った。 「……誰ですか?」  思わぬ珍客に眉をひそめて警戒心もあらわに誰何(すいか)すると、くだんの男が笑顔を苦笑に替えてわざとらしく肩をすくめてみせる。 「おいおい、仮にもOBを捕まえてその発言はないだろ。第一、冬休み中の寒稽古でもきみとは一度顔を合わせてるんだけどな」 「……ああ……」  言われて初めて、ごく最近気晴らしにと参加した寒稽古で、あのとき確かにひとり、顧問が指導係にと連れてきたOBがいたことをふと思い出す。もっとも、あのときも今も、この男にはひとすじの興味もなかったので、こうやって改めて相対してみてもその認識はひどくあいまいなままだった。
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