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5.如月【千景】
「──萱島」
主将の羽黒(はぐろ)が引く弓から解き放たれた矢が、小気味よい音とともに正確に的の中心を射抜く。日ごろの鍛錬の成せるたまものなのか、先程から一分の隙もない美しい所作に千景が見入っていると、背後から顧問の桐原に声を掛けられた。
「悪い。今、ちょっといいか」
「……はい」
──二月の最終日曜日、すでに合格が決まった千景たち推薦枠組は早くも大学での合同練習に参加していた。床に坐した先輩たちの背中に向かって一礼すると、千景は弓道場を抜けた先にある部室でおのれを待つ桐原のもとに向かう。
途中、頬を撫でるつめたい空気のなかにふとかすかな香りを感じて立ち止まると、視線の先、小さな黄色い花を付けた蝋梅(ろうばい)の枝が風に揺れていた。もう少しすれば、ここにあるすべての庭樹がいっせいに芽吹き、鮮やかな緑にさまざまな色彩きらめく春がやってくる。
果たして、そのときいったい自分は何を想うのだろう。生まれ育ったかの地を離れてひとり、少しずつ過去の記憶を葬りながら、何もなかった顔をして穏やかな陽射しに目を眇める日がやってくるのだろうか。今もなお、生々しい傷痕のようにこの胸を捉えて離さないかのひとへの想いまですべて、やがては決してとどまることのない時間のなかに埋没していってしまうのだろうか。
「──ああ、悪いな。練習中に呼び出したりして。すまんがそこの椅子にでも掛けてくれ」
「はい。失礼します」
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