2.睦月【貫井】

1/8
184人が本棚に入れています
本棚に追加
/50ページ

2.睦月【貫井】

「──あなたが貫井(ぬくい)先生、ですか?」  その珍客が現れたのは放課後、職員室で担任である受験生たちの最終進学希望表をリストに取りまとめている最中だった。    三学期に入ると同時に三年生は自由登校となり、今、貫井に担任として残された最後の役割は彼らの大いなる健闘と第一志望校への合格を祈ることだけだった。教師なんて言ってもこうなってしまえば所詮は無力だ。せいぜいが神頼み、下手をすれば早くも来たる新年度の準備に忙殺されてそれすらまともにおぼつかない。 「はい、そうです。──あの、失礼ですが、」 「……ああ、すみません。ご紹介が遅れました。私、S大で弓道部の顧問をしております桐原と申します」  どちらさまですか、と続けようとした貫井の機先を制するようにして、桐原と名乗った同年代の男が低頭する。つられて挨拶をしようと席を立ちかけた貫井を、ああ、どうかそのままで、と押しとどめると、「すみませんが、今、少しだけお時間よろしいでしょうか?」と人好きのする笑顔を見せた。 「それは構いませんが、……場所を変えた方がいいご用件ですか」 「はい、できましたらそうしていただけるとありがたいです。そうですね、もし差し支えなければ、──あそこなんてどうです?」  そう言って、桐原が指し示した場所に少々面食らう。職員室の窓越し、道路を挟んだ先にある弓道場からもれる明かりが、少しずつ薄闇に沈みゆく風景のなか、やけに鮮やかに貫井の目に映った。 「……いや、しかし、今の時間だとまだ弓道部が活動中なのでは」
/50ページ

最初のコメントを投稿しよう!