Hello & Good-by

1/2
前へ
/14ページ
次へ

Hello & Good-by

今日はいつもよりほんの少し騒がしい1日だった。通常通りの道順で通常通り誰とも目を合わせないように学校へとたどり着いた僕を待ってたのは、登校早々朝一番僕を職員室へ呼び出すための西山教諭による校内アナウンスだった。もちろん呼び出しには身に覚えがない僕だったが学校内の秩序の象徴たる教員からのコールには応じないわけにはいかず朝の斜陽刺す廊下、僕こと小宮寺岬12歳の筋分乏しい細足は粛々と目指す場所へと歩を進めていくこととなる。階段を道中ひとつ挟み2階へ上がるとすぐにその目当ての扉は現れた。うちの学校の職員室のドアは通常授業用の教室と同じで一番後ろと前に二つある。ただ部屋の大きさはそれらと比べて1.5倍くらい違っていて大きい。職員数は全員を把握している自信はないけれど10人いるかいないか程度の人間がこの場所にだいたい詰めていてよく何を担当してるのかよくわからない白髪の先生が隅っこの席でおそらく専用だろう湯呑みでお茶をすすっている印象が強い。一応5年間通ってきた学校だけれど未だあの先生が授業をしている瞬間を見たことがないのはなぜなんだろう。 余計なことに気を取られているうちに扉の取っ手が手の届く距離へと近づいてきた。これが初めてではないというのにどういうわけかここの場所を前にすると毎回えもいわれぬ圧迫感と緊張に体が勝手に震えを覚えてしまう。それはきっと職員室に生徒が呼ばれる理由にろくなことがないという経験則からのものだろう。鬼が出るか蛇が出るかあるいはそのどちらもか、僕は意を決してドアを右へスライドさせる。中は、先ほど到着したのであろう教員達が毎朝恒例の朝の会へ出席するための準備によって少々慌ただしさが漂っている。僕が扉を開けるのと同時に一人の教員が急いだ様子で飛び出してきて危うくぶつかりそうになったので避けるようにすれ違って行く。辺りを見回すとその中に一際鬼気迫るオーラを纏った初老の女教諭を発見した。いた。あれが僕をこの魔境へと誘いたもうたその人、西山智代子先生である。端の吊り上がった真っ赤なフレームの眼鏡が印象的で彼女の細く尖った鷲鼻と合わさることで元より備わっている威厳と眼光に拍車がかかっている。その纏う空気の厳しさといったら生徒諸君及び一部の教職員に女帝と言わしめるのに一片の不得はないことは疑いもない。部屋の奥の方、彼女のデスクにはいつも何かしらの書類が山のように積もっている。今日も今日とてそれは変わりなく先日終えたテストの用紙やらおそらく朝の会で配るつもりなのであろうプリントやらが凄まじく几帳面に整頓されて小さな塔を築いている。その紙でできた楼閣の隙間からまるで猛禽を想わせる鋭い視線が僕の小さな体を真っ直ぐに射るのを感じた。僕に気づいた先生は何も言わずただ手振りでここまで来なさいとだけ指示してきた。怖い。とても。でも行かなきゃ。逃げ出す選択権など最初からないのだから。 「おはようございます、小宮寺さん。いつもより10分ほど早い登校ですね。感心しますよ」 「…はい」 「もう4月だというのに室内でマフラーは暑くありませんか?」 「え…と、いえ……」 「そうですか、まあいいでしょう」 軽く世間話のつもりだろうか。だとしたら顔のせいで全然その体をなしていない。僕はうつむいた首を上へ傾け先生の表情を伺うと、明らかに軽口のジャブを入れて緊張をほぐし会話を滑らかにしようなどと考えている人間の顔とは到底思えない。間違いなくこれは相手にストレート、もといお説教お叱りお教鞭お小言をくらわせる為の言わば彼女なりの前哨戦かなにかの類なのだと思えてくる。この感じはよく知っている。いつも教室で見るあの感じ。狭い部屋、教室の中での極めて閉鎖的な社会における弱者と強者がくっきりと色分けされているあの感覚だ。当事者は必ずしも自分だけではないがやはり怒られている間生きた心地がしないのは誰にも共通のことだろう。先生からのというのがおかしいなら西山先生に怒られる時と言い換えることにする。そのあまりの眼光に後退りしそうになりつつ僕は先生が次の話、メインの話題へとシフトするのを待った。 「ところで小宮寺さん、あなたはどうして今ここに呼ばれたのかきちんと理解していますか?」 「い…いいえ」 これは本当だった。正確には怒られることに対して、だが。 「そうですか。いえ、いいのです。私もここで1時間も2時間も長く話している余裕はないので単刀直入に言うと昨日あなたのことで生徒からとある報告があったのですが」 「え、な…なんですか」 ここで先生は全く呆れたというふうにとても大きなためをついた。 「あなたが特定の人物、それも教員のことを著しく貶める言葉を隠れて言いふらしていると」 「…え?」 「改めて訊ねますがこの事に関して心当たりはありますか?小宮寺岬さん」 もちろんない。あるわけがない。悪口?僕が?誰の?全くなんのことかわからない。あまりの唐突さに言葉が出せないでオロオロしていると先生の方がすぐに句を継いで来た。 「これが本当なら今日授業が終了次第保護者の方に連絡して学校の方に来てもらうかもしれません。どうなんですか?」 「え…ぁ…ぁの」 「どうなんですか。はっきりして下さい。あなたはやったんですか?」 「…ぇと…ぁ…の…」 緊張で声が出ない。いつもの悪い癖が出ている。責められると相手がだれであれ、それがなんのことであれ言外に攻撃性を感じると途端に喉に栓がされたように声が発せなくなる。こうなるともうなされるがままだ。なにもできない。ランドセルの肩掛けにかける手が一気に汗ばんでいくのがわかる。答えに窮する僕の様子からとりあえず今はなにも返事が期待できないことを察したのか先生は早々に「まあいいです。このことは今日の朝の会と道徳の授業で議題にあげます」と話を打ち切ってきた。 「もういいですよ。早く教室に行きなさい。もう他の生徒も来ている頃でしょう。このことは後日また話します」 なにがなんだったのか理解が追いつかないまま解放されてしまった。 最初の授業は確か音楽だ。記憶の通りだとしたら内容は合唱。合唱と言えば一つ思い出すことがあった。先日の帰り、僕の膝に爪先で話しかけてくるという字に起こすとなかなかに馬鹿げた風に聞こえるような離れ業を披露してきた男子。話の内容は流石に一字一句違わず覚えてはいないけれど概ねは音楽の授業についての愚痴だったと思う。曰く歌う曲が気に入らないだの云々。先生の自分への扱いが不当だの云々。いや、他にもなにか言っていた様な。なんだったか。確か僕に先生のことでなにか同意を求めてきたような。先程の西山先生の言葉を思い出す。「特定の教員のことを著しく貶める言葉を隠れて言いふらしている、と」そしてそれについては「昨日あなたのことで生徒からとある報告あった」らしい。昨日僕が逆らえずなくなく首を縦にした言葉は一歩間違えなくても特定の教員に対する悪口になるだろう。 心当たり、か。いや、やめよう。あくまで憶測だ。証拠はない。第一そんなことをする意味は?誰がなんの得がためにそんなことをするのか。下手に邪推するものじゃないよ。うん。なんでもない。きっとどこかで僕が何か紛らわしい発言をしてそれを誰かが勘違いして聞いていた、そうこれは悲しい悲しい不幸な事故だったんだ。悪いのは僕だ。間違ってない。大丈夫。 そんな不毛なことを考えるより今僕がやるべきことは可及的速やかに教室へ向かい1時限目の準備を済ませることだ。6年1組教室のドアへ手を掛けるのと同時に朝の会の時間を知らせるチャイムが鳴る。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加