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ボーカル
テレビによると都心の方ではやれギャルだのインターネットだの湧いているらしいが、この田舎町に流れる時間はそんなこと何処吹く風とばかりにゆったりとその意思なき時計の針を進めてゆくばかりだ。少し詩的すぎたかな。今のあたしボブディランみたい。全然違うか。友達を待っている身とはいえガラでないことはするもんじゃないな。昨日はつい話が興に乗りすぎて帰るのが遅くなってしまってそのせいで少しばかり親に怒られていた。だから飯を食うのも風呂もギター練もその分時間がずれ込んだ関係であまり睡眠できなかった。今朝は潤が家まできて起こしてくれたけどこれからは登下校にもう一人加わるのだからおいそれと寝坊もできない。気をつけたいところだけれどどうしてもあたしよりずっとしっかりしてる潤に甘えてしまいがちになる。あたしの10年間の人生の中での研究によればどうもあたしの体は十分な睡眠、ざっと8時間はとらないと本調子が出ないようで公園で待ち合わせをしている間昨日の失態がたたってあたしは自分の拳が入らんばかりの開口で大欠伸を何発もかましていた。眠い。潤の方はどうだったのか知らないがあそこの両親はあまり怒号を飛ばして娘を叱りつけるタイプではない。きっと簡単な二言三言だけですんだのだろう。まあ本人の普段の態度もあるんだろうが。世知辛いもんだ。
とんがり公園は地元の人が勝手にそう呼んでいるだけの町内でもそれなりの広さを誇る砂場と滑り台とブランコとジャングルジムとなんかジャングルジムに似た円形の回転するやつがあるごく一般的な公園である。他にもベンチや街灯それから中央に時計が設置もされている。なぜとんがりなのかというと公園を上から見ると三角定規の二等辺じゃない方みたいな形だからとか、はたまた時計の装飾の先端が某指にはめるスナック菓子に似ているからだとか、果ては遊具とベンチのカラーリングのセンスが尖っているからだとか謂れは様々聞くけれど本当のところよくわからない。昨日話した通りに潤と一緒に学校に向かう途中にあるこのとんがり公園でもう一人の同行者を待っていると10分もしないうちに特徴的な輝きを放つ髪の少女が公園の向こう側からこちらに向かってくるのが見えた。
「おはよう。二人とも早いね」
「おう。おっはよー」
「おはよう、みさ。全然待ってないよ。さ、行こうか」
3人揃ったところで潤の声で全員学校への道のりを歩き始める。ところどころ歩道が狭くなっているところなんかは前までは2人でギリギリ横並びで通れたところをあたし、潤、みさの並びで縦に並んで進んでいくところが1人増えていることを実感させる。さて、偉大なる志々田小夜様ときたらこのただ登校している時間でさえも無駄にする気はないのである。今日のうちに決めておこうとしていることを昨日の晩にピックアップしておいた。どこに書いてあるかってあたしの頭に決まってる。
「とにかく今日決めておきたいのはそれぞれのパートだな」
「さしあたってはそんな感じか」
「2人はどちらもギターなんだっけ?」
ううん、その辺は半ば成り行きで決まったようなものであまり首を縦に振りづらいものがあるような。やり始めてわかったことだが弦楽器のあの指先でちまちま細かく動かす感じがちょっと性に合わない気がして開始一週間ですでに挫折気味になっているのである。そんなことを2人に話すと潤は当然嫌な顔をして何だそれと怒ってきたのに対してみさはというとこちらの話を聞き終わるなり食い気味に一つ提案をしてきた。
「それなら私がギターやろうか?私前からギターにとっても興味があって一度やってみたかったの」
そういえばそんなことを昨日言っていたな。意欲が薄れたあたしが続けるより本人がやりたい楽器をやらせてみる方が合理的か。
「だけどそうなると小夜のパートはどうするんだよ」
「ふふん、もうそのことについては考えてあるのさ潤さんや」
「何だその喋り方」
「ズバリ!ボーカルだァァァァァ」
突然の豪声に登校途中の生徒が数人こちらを見る。二人もあたしのあまりの勢いに言葉をなくしている。ふふんと一人仁王立ちで得意に胸を張るあたしに潤が水を刺すような一言を投げる。
「いや小夜には無理だろボーカル」
「は?何でだよ昨日ビデオ見てたらピーンときたんだ。マイクの前で歌ってりゃいいんだろ。難しいことないじゃん。あたしにぴったりだ」
「いやお前ボーカルなめ過ぎだろ。あれだって色々と苦労することが…」
また潤のいつものくせが出た。たまに出る何かにつけて親譲りのうんちくを披露してくるスイッチがオンになった証拠だ。
「…だからボーカルってのはそれ専門でやるにはかなり難しい技能のいる役職で本人の体調管理とか喉のケアとか気にすることはいっぱいあるんだぞ」
「わかった。わかったから」
「へぇ〜歌を歌うだけでもたくさん気をつけなきゃいけないんだねぇ。勉強になったぁ。ふふっ」
と、みさ
「だいたいお前合唱の授業いっつもただガナってるだけだって先生に注意されてるじゃないか。そんなでボーカルは無理だろ」
う、ぐうの音も出ない。だけどだったら何がいいというのだろう。
「あ、そうだ。ドラムスなんてどう?体を大きく使うし小夜ちゃんに合ってるんじゃないかな」
「それだ!」
「あードラムこそ一番無理だよ。ドラムはリズム隊で一番重要なポジションでバンドの中核的な存在だから演奏する時はリーダーのように周りに気を配れる人物が望ましいことが多いんだ。小夜にそんな芸当ができるとは思えない」
黙って聞いていればかなり言いたい放題言われている。流石にそこまで貶されるいわれは無いはずだ。
「じゃあ何の楽器がいいってんだよ!言いたい放題言ってばっかで何もアイデア出さないで」
「いや自分のパートだろ。自分で考えろよ」
「えっと、二人とも落ち着いて」
あたしが声を荒げるもんだから喧嘩してると思ったらしい。でもあたしたちにとってはこんなこと日常茶飯事で潤も2割くらいしか本気で言ってないことはあたしもわかってる。なんせ長い付き合いだ。とはいえ昨日からの新入りをビビらせたままにしておくのも忍びないので形だけでも息を整えてから元の議題に戻る。
「ドラムもギターもだめ。あと残ったのは、ベースか?」
「でもそれだと結局新しく楽器を買わないと練習できないしな。私たちのお小遣いをどれだけ貯めても楽器一個買うには絶対足りないだろうし」
「ベースってどんなの?」
「えーと、構造的にはギターとほぼ一緒なんだけど弦一本一本の太さがギターと違って太いんだ。弦も少なくてギターが普通6本なのに対してベースは4本で6弦から3弦の1オクターブ下の音が出るようになってるんだ。といってもこれはエレキベースの基本的な形で別の…」
また始まった。うんちくスイッチが入りきる前に話を遮った方が良さそうだ。しかしなかなか話が前に進まない。今の所決まっているのはみさと潤がギター
ということだけであたしは今の所無所属。どうしたものかと歩きながら唸っているところにみさが新たな光明を投げかけてきた。
「そのベースならひょっとしてウチにあったかも?」
「「何だって?」」
「母が昔ジャズをやっていてその時のメンバーの楽器が倉庫にしまってあるかもしれないの」
「確かなのか?」
「多分だけど」
「使わせてもらえそうなのか?」
「頼めば、多分」
びっくりする程の偶然だ。3人とも親が元バンドマンでしかも当時の楽器を今も持っているだなんて幸先がいいにも程がある。だがこれで楽器の部分の問題はほぼ解消されたも同然だ。バンドの楽器がフルであるならベースだけでなくドラムもある可能性も高いからだ。それにしてもドラムか。さっきは笑って流されたが一抹の興味があるのも正直なところ。あたしはそれとなくみさに訊いてみる。
「なあそれならドラムもあるかな」
「どうだろう、はっきり見たことがあるわけじゃ無いから」
「でもこれで次の休み集まった時にやることはだいたい決まったな。みさは家から楽器を持って小夜の家へきてくれ。とりあえず小夜のパートはそれまで保留だ。ほらもう学校に着いたぞ」
気づけばいつの間にか校門を超えて校舎のすぐ目の前まで来ていた。3人とも同じクラスなので校内でもそのまま一緒の道になるが別になる人たちは各々の利用する教室へ続く道へと方向を変えていく。二人を連れてあたしは〇〇市立△□小学校3年3組の教室へと足を踏み入れる。さあここからは戦場だ。おおよそ4時間もの長きに渡る内なる自分との、別名睡魔との決闘の地へとこの教室が化すようになる。戦いを制したものこそが教師の説教を逃れそのあとの給食にありつける。覚悟を決め両頬を叩いて自らを鼓舞し机へと向かう。戦闘態勢は万全だ。どこからでもかかってくるがいいふふふ。今のあたしは目標にひた燃える豪鬼であるぞ。誰に何を言われようが動じない鋼の女ぞ。宿題?知らんなぁ。
そして日曜
「お、きたきたー。おーいこっち!」
あたしは自分の家の前から見えた朝日をこれでもかと眩しく反射してくる少し淡めの色合いの乗用車に手を振っていた。話に聞いていた通りだからあれがみさの一家の用車なのだろう。あんのじょう助手席の窓を覗くといつもの満天の笑みが見えた。運転席は、光の照り返しの関係でよく見えない。あたしがコールして向こうもこちらに車を向けてくる。かと思いきや道をまっすぐにウチのある方向を通り過ぎていった。理由はわかっている。このあたりは家々の並ぶ住宅街なのだがそのすぐ先が田んぼになっていて田舎道というのかかなり広い敷地を道路がそれこそ田の字に囲っている。そのせいで田の字の上辺に位置するウチに車を前向けに入れてしまうと帰ってくるのに相当な距離を使ってターンしてくることになるため一旦丁字路を通り過ぎてからバックで入車した方があとあと楽なのである。と、さっき父ちゃんから聞いた。慣れた感じで後ろ向きの車がこちらに近づいてきて間も無く停車した。先にドアが開いたのは助手席の方。キラキラと朝日に負けないくらいの笑顔でみさが走ってきた。
「おはよう小夜ちゃん潤ちゃん!待たせちゃったかな?」
「おっはよう、みさ。心配しなくても時間はいっぱいあるんだから遅刻なんて気にすんな」
「おはよ、心配せんでも時間ぴったりだよ。危うく寝坊しかけたこいつの戯言は気にしないでくれ」
「うっさいな、昨日は興奮して眠れなかったんだよ。」
「どうせ昨日夜テレビでやってたアクション映画見てたんだろ。お前シュワちゃん好きだし」
「ぐ、やかましい。起きれたんだからいいだろ」
「私の手刀とリバースインディアンデスロックのおかげでな」
「危うく永遠に眠るとこでしたけどね!!!」
「ふふふ、相変わらずだね二人とも。へえここが小夜ちゃんの家かぁ。なんだか素敵」
「まあ上がってよ。今後の作戦立てようぜ」
自分の家を素敵だなんて評価されたことなんてなかったから一瞬うろたえてしまった。なんだかむず痒い感じだが気を取り直して我が志々田小夜バンドの有望な新人を玄関まで誘導する。潤はというともうすでに勝手知ったる我が家という具合に靴も脱いで上がりこんでいる。トランクに仕舞われているらしい楽器をみさはてくてくと車の後部にまわり上開きの鉄蓋を少々慣れない手つきで開け自分の肩に担いだ。結局どうやら常陸院家の倉庫にはドラムセットは無かったが代わりにベースはいいものがあったらしく潤が興奮気味に昨日電話越しに話していたのを覚えている。なんでも有名なメーカーの一品なんだそうな。
「それじゃあお母さんまた夕方にお願い」
育ちの良さなのか運転席に座る母親らしき人物にみさは一言挨拶をしている。さっきは見えなかったその顔はやはりみさの母だけあって美人だ。銀縁の眼鏡をしているややツリ目、髪は黒のストレートショート。恐ろしく小顔で眼鼻立ちがはっきりしている。印象はさながらできるキャリアウーマン。親子だというのに二人は全然似ていないな。挨拶以外に二言三言話しているそんな二人の様子を見てなぜかあたしはふと違和感を覚えた。なんでかはわからないが目の前の母娘の何気ないやりとりにほんのちょっぴりひっかるものがある。まあ多分気のせいだ。それにしてもこの人がみさの言っていたかつてジャズバンドをやっていたという人なんだろうか。それにしてはあまりその雰囲気が感じられないというかなんというか。父親の方なんだろうか。いや確か母がと言っていたような。まあいいやとりあえず部屋に上がってから色々考えよう。今は何より優先すべきことが目の前にある。さあさあ寄ってけきいてけいずれは誰もがその名を耳にする事になるであろう志々田小夜バンドの大いなる第一歩がここから始まりますよっと。
あたしの部屋に3人が入りきってまず始めたことはみさが持ってきたベースのお披露目だった。あまり自信なくベースそのものかどうかわからなかった本人の憂慮は良い意味で裏切られ古いハードケースから取り出されたそれは少し埃っぽいが間違いなく4弦20フレット2ピックアップのスタンダードなJベースだ。昨日電話越しの態度と違わず本物と対面した瞬間潤はそれはもう目を光らせて飛びついている。
「これって…すごく良いものじゃないか!しかも状態もいい。よくこんな綺麗な状態で残っていたな。カラーいい!モデルは60年製か。ジャコパスと同じだな!いいな!すごくかっこいい!あ、ここちょっと傷ついてる。でもそこもシブい!ちょっと弾いてみてもいいかな?」
「あ…うんどうぞ」
落ち着け。珍しくみさが若干引いているぞ。てかこいつそんなにベース好きだったのか。ジャコ・パストリアスならあたしも知ってるが、同じモデルの楽器というだけでここまで興奮するか。親指をピックアップに乗っけて人差し指と中指で軽く4弦をはじいてみせる。言い忘れてたけど弦はさっき親に変えてもらってきた。流石に古いまんまのニッケル弦では劣化が残っているからだ。
「…うん。いい感じだ。ちょっと繋いで音出して見たいな。いいか?小夜」
「しょうがねえなぁ。まあ親には言ってあるからあとは…」
座っていたあたしと潤が突然立ち上がったのを見てみさは何だろうとキョロキョロと二人の人間を交互に見回す。立った理由はまあ一つでここいらは昼間でも静かな田園地帯であるもののそれなりに一軒家の立ち並ぶ住宅街でもあるのでこのように部屋のアンプ、つまり音響機材に線を繋いで音を出す時は部屋から漏れ出て近隣に迷惑がないように…
「窓を閉めるんだよ。つっても防音に優れてるわけじゃないからどうしても音は漏れるんだよな。隣さんには何となく黙認してもらってるけど」
「これももういつものことだよな。私たちにとって」
「へえ、そうだったんだ」
「そ。もっとも前まではあたしと潤のギターだけだったけど。ベースも鳴せるよな多分」
アンプもギターも元は親のものだったのを半ば譲り受けた形なので詳しいことは親に訊けばわかるだろうがそんな時間も今の潤には惜しいらしくあたしでもそうそう見ないくらいのキラキラした目で音出しの準備を進めている。そんなに楽しみか。
あっという間に機材の設置が終わって楽器と機材をつなぐコード、シールド弦と呼ばれるそれが部屋の壁側に置かれたアンプに繋がれている。もともとはさらに広い場所で使うことを想定しているためかなり長めの尺になっているからあたしの散らかった部屋だとだいぶ長さを持て余して少々邪魔になる。3人もいると尚更だ。これでも昨日頑張って片付けしたんだけどな。そして緊張の初お披露目の音出し。先程と同じように指を置き左手でネックを押さえる。
ボーーーン
ううん、正直…何というか…微妙。というか取り立ててベースの音に好みがないから他の同楽器と違いがよくわからない。が、当の潤さんはそうじゃないらしく鼻息荒げた様子であれがいいこれがいいとマニアックな視点でまくし立てている。ここまでくるともう言わずにはいられないな。あたしはここまでの流れからくる至極当然な提案をすることにした。
「そこまで気になってるんだったら潤がベースやれば?」
「え!いいのか?」
いや、そんな少女漫画キャラみたいな目で言われてもな。なまじ美人顔だから本当にフィクションから飛び出してきたみたいで長付き合いながらたじろいでしまう。
「よかった。問題なく使えるみたいだねベース」
「うん。こいつはいいものだよ!でかしたよ、みさ」
「それならベースは潤ちゃんで決まりだね」
あたしがギター辞めたい言ったときは修羅の形相だったというのに自分のことになったらいいのかと少々釈然としないが今の嬉しそうな幼馴染の顔を見ていると水をさすようなことを言うのはよした方が良さそうという気になってきた。
「それとみさのギターだけどあたしと潤のやつ、どっち使う?どっちもあんまり音良くないけどな」
「私ギターって触るの初めてなんだけど大丈夫かな?何だかちょっと怖くなってきたよ」
「大丈夫大丈夫あたしにもちょっとはできたんだから成績いいみさなら余裕だろ」
「ここまで信用できない”大丈夫”も他にないだろうな…」
「何か言ったかいの?潤さんやコラ」
青筋立てたまま顔は笑う。あたしの得意技だ。
「とりあえず試しに二つとも弾かせてもらっていいかな。弾きやすさも考えた方がいいかもだし」
「そうだな、テレキャスターとストラトキャスターがあるけど、そうだな…先ずはテレの方で行ってみるか」
「ふふ、お手柔らかにお願いします」
楽しげな二人のやりとりを後目にあたしはこれからのことをふと考えていた。このままいくとみさがギターで潤がベース。それならあたしは?ベースが二人いるバンドなんて幾ら何でも聞いたことがない。潤なら知っているかもしれないけどいたところで今のあたしたちの人数で見積もったらパートのダブりはほとんどありえない。ギターは先述の通りモチベーション不足による挫折気味。残るは…。
そんなことを漠然と考えていると早速潤のレッスンが始まっているのが聞こえてきた。
「そう。で、これがAコードでこれがGコード。へえうまいうまい。まだ弦に指が余分に当たって綺麗には鳴ってないけどコードを押さえる手はばっちりだよ」
「ふふっ」
褒められていつもの何割か増しで嬉しそうなみさは聞くところによると成績も大変よろしいようでやはり頭の作りの違いはこういうところにも出るのかあたしが一日かかってようやく覚えたことをものの数分でほぼマスターしている。流石にちょっと悔しいが差が広いと諦めもつきやすいのかそこまで辛酸の味が濃すぎるということもない。それだけ思い入れがないということなのかもしれない。その点でいえば潤のベースに向けられる情熱の量は少し羨ましいものがあるかもしれない。少し心の内がモヤモヤした気分になる。
「じゃあ今覚えたコードだけでできる曲をちょっと練習してみるか」
「え!もうそんな覚えたのかよ!凄えな」
「そんなことないよ。潤ちゃんの教え方がとっても上手なの」
その潤ちゃんと同じ要領でやってたんだがなぁ。それにしたってまだ陽も傾いてないぞ。どんな記憶能力だ。
「ええと。よし、この曲でいいか。一旦聴いてからあとで弾き方を教えるよ」
そう言うと潤は棚の奥、右端から何個か数えたところにある30センチ盤のレコードケースを取り出した。ジャケットにはよく見知った4人組の顔が並んでいる。あたしのお気に入りの一つだ。なるほど潤はあの曲を教材にする気なのだ。確かにあれなら教えた範囲でもわかるだろうがそれにしても潤のやつは仮にも人の家の部屋のものだというのに微塵も遠慮なしである。こんにち流通し出して久しいコンパクトディスクと違いビニル製のレコードは盤に直接針を接触させる関係で少しづつ摩耗していくのだ。それなのにも関わらず本人には消耗品を扱っている自覚がないのか取り出した盤をもうプレーヤーのトレイに乗せている。無用な知識は多いのにちょっとした配慮に少々欠ける幼稚園以来の友人の顔は今とても楽しそうであまり邪魔をするのも気がひけるが一言注意喚起しておくくらいならまだバチは当たらないだろう。
「おーい潤。勝手にウチのもの使うのは結構だけど慎重に扱えよ。壊したらあたしが父ちゃんに怒られるんだから」
「わかってる。流石に乱暴に扱うような真似はしないよ」
「確かにアナログレコードは繊細だから扱いに気を使えってよく家の人に言われるよ。うちにも古いクラシックがいくつかコレクションしてあるから」
ううん何だか会話が今を生きる華の小学3年生にあるまじきジジババくささになってきた気がする。ていうか今家の人って言ったか?
「年寄りの会話かよ。ほら練習するぞ練習」
こうしているうちに時間も過ぎていき今日のところは御開きということになった。あたしはというと結局自身の鞘を見つけられず適当に二人のティーチアンドリッスンを聞き流していた。暗くなった外で親が車で迎えにきているみさにまた明日と声をかけて潤ともお別れを言った後自分の部屋に戻る。布団に体を投げ出し疲れながらも楽しい1日を振り返っているとあたしはさっき自分が考えていたことをもう一度思い出していた。誰にも負けられないもの。あたしにとって1番気を傾けられること。かけられること。それらは今年9歳になるこの身にはまだピンとくる気配さえない。昼間も思ったが潤があそこまでベースが好きだったとは知らなかった。それ自体は全然気にしていないことだ。問題はその熱量だ。みさはどうだろう。あれですぐあれはダメだとかこれはダメだというタチではあるまい。出会って間もないしそこまで内面を知った風にはできないけれどそんな気がする。自分と他二人との立ち位置というか精神的な安定感にギャップがあるような気がして体は疲れているのに心に残ったしこりが大人しく寝かしつけてくれない。まあまだ言っても小学3年で小学校生活も折り返した程度だ。時間はまだたっぷりとあるのだ。明日からまたやることがいっぱいある。こんなところでめげてはいられない。今後のことを考え始めたら目が冴えてしまって結局次の日も潤に得意のプロレス技で叩き起こされた。
「さ〜よ〜!いい加減自分で起きろ!」
「ちょ、潤さん、起きてる起きてますから。起きてるってかしまってますからッッ」
「なんだもう起きてたのかせっかくリバースじゃない方のデスロックかけようとしてたのに」
「だから死ぬっての!いい加減あたしを覚えたての技の実験台にすんのやめろよ。身がもたんわ」
「だったら自分で起きれるようになったらいいだろ。ちなみに技についてはご両親の許可取得済みだ」
「あんにゃろう」
「ほら早く準備しろよ。今日は体育あるから体育着忘れるなよ」
「…」
「小夜?」
あたしがぼーっとしているのを見てまだ目が覚醒しきっていないと見たのか潤が新たに技をかけようと構えを取ってくる。それを止めようとしたわけではないが、昨日のことが頭をもたげてあたしはポツリと潤に問いかけていた。
「ねえ潤」
「ん?」
「あたしって何になるんだろ」
「?どうしたんだよ小夜。頭でもぶつけたのか?」
「違うって。ああもうなんでもない!早く準備するぞ。潤」
「いや私は準備できてるよ。お前がさっさとしろ」
そうしてあたしたちはリビングでいつもの通りに軽く朝食を取って直ぐに例のとんがり公園に向かった。途中あたしはもう一度、急いで家のドアを出る潤の後ろで一人呟いていた。
あたしは何になるのだろう?
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