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參 『外科室』
「ハル、私死ぬなら愛する人の持つメスに胸を貫かれて死にたい」
実験室から出てきた男に駆け寄って言う。いつものシャンプーの匂いに混じってかすかに漂う薬品の香り。
「突然どうしたの。ていうか待っててくれたんだ。嬉しい」
私の右手をとって歩き出しながら、男は嬉しげな顔をする。
「あんまりにも感動的だったから待ってた。まずはハルに伝えなきゃって」
大学が始まってから一月が過ぎた。男と見た満開の桜も、もう青々とした葉桜になっている。
男はいつも、自分の講義が先に終わったら、私の講義室の前で待っている。私はいくら早く終わっても、男を待つようなことはしない。待つのは嫌いだから。それに、一人で行動できるから。今日例外的に待っていたのは、男に用事があったからである。
「そかそか。いったいなにが感動的だったの」
「貴船夫人の死に方があまりにもうつくしくて」
《いったい》という芝居がかった男の口調を心の中で反芻しながら答える。
「ほう。まず貴船夫人って誰さ。また本読んでたの?」
「そう、読んでたの。鏡花の『外科室』」
一旦切って、左手で鞄の中身を探る。そうして取り出した文庫本を男に渡し、
「そのヒロインが貴船夫人。愛する人の握るメスを掴んで死ぬの」
と続ける。
「ほー。メス持ってるってことは、夫人の好きな人はお医者さん?」
「そそ、高峰っていうすごいお医者様なの」
「じゃあ俺は医者にならなきゃだめなのか」
なぜ彼が医者にならねばならないと思ったのか、一瞬理解できなかった。すぐにわかったけれど。多分、私が最初に「愛する人の握るメスで死にたい」と言ったからだろう。だからといって、医者になってほしいわけではなかったのだけれど。
「医者になってくれなくてもいいけど、私、ハルに殺してもらえたら、とってもしあわせに死ねると思うの」
「そっかぁ。でも俺さ、あいのこと殺せないと思う。ネクロフォビアだから」
悲しげに、男は言った。ネクロフォビアだから。
彼は死にまつわるものに、生理的恐怖を覚える。曰く、「たとえどんなに愛する人だったとしても、その人が死んだ途端愛せなくなる」とのこと。
「じゃあハルとの愛を大成させるなら、私がハルを殺さなきゃね」
「いいよ、あいになら刺し殺されても。痛いのは嫌いだけど」
ふわりと笑う男があまりにも愛しいから殺したくなる。男の白い肌に刃を走らせたい。そして流れ出る血を啜りたい。衝動を抑える為に、私は男の頸筋へ歯をたてた。
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