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壹 『片戀』
ㅤ「あい、見て、満月」
男に囁かれ、私は遠い虚空を見上げた。
「ええ、そうね、満月」
言いながら、次に言われるであろう台詞を脳裏に浮かべる。そうして、男が口を開くと同時に心の中で唱和する。月が──
「月が綺麗ですね」
嗚呼、またしても。またしても、その台詞を言われてしまった。今まで、幾度となく様々な男から聞かされてきた陳腐な台詞。
「──そうね、綺麗」
溜め息混じりに答えると、男はさも意外だという表情をつくった。おおかた、私が喜ぶと思って言ったのだろう。あるいは、二葉亭四迷を引用して答えると思ったのかもしれない。
「あい、知らないの? 夏目漱石の名言。本好きなのに意外だな」
「ハル、漱石はそんなこと言ってないわ」
苦笑して言う。春の夜風が私たちの髪を揺らして吹き過ぎる。
「え? じゃあ誰だっけ。太宰治?」
「いいえ。太宰も言ってない。──あのね、ハル」
隣に座る、くたびれた灰色のパーカーを着た男に目を合わせる。この人の目は、たまに怖いほど綺麗に見える。今夜の月なんかよりもずっと。
「──俗に漱石が『I love you』を『月が綺麗ですね』って訳したなんて言われてるけど、それは間違い。正しくは、『月がとっても青いなあ』。まあ、これも出典が昭和後期の雑誌だから信憑性は微妙なんだけどね」
「へー、そうなんだ。──じゃああい、『月がとっても青いなあ』」
言い直した男に、私はどう返事をすればよいか逡巡する。今宵の月はとっても青い。そして、私はこの男を愛している。だけど、この男が期待しているであろう返答はしたくない。
「──そうね、青いわね」
迷った挙句、そう答えた。我ながらつまらない回答だと思う。
「えー、そこはさ、『私死んでもいい』的なやつじゃないの?」
やはり、男は「死んでも可いわ」と答えることを求めていたらしい。その浅はかさに幻滅する。
「ハル、よく考えて。そんな答えじゃ会話が噛み合わないと思わない?」
いや、よく考えなくてもわかるだろうけど、と心の中で付け加える。
「愛してるに対して愛してるでしょ? 全然噛み合うじゃん」
嗚呼、予想以上にこの男はものを知らなかった。私は何故こんなにも知識量の違う人を愛してしまったのだろう。不遜にも、そう思った。この人とは注釈無しで会話が成り立たない。
「四迷は『Ваша』を『死んでも可いわ』って意訳したの。愛してるだなんて言ってない」
「へ? 馬車?」
下手くそなロシア語を聞き間違えられ、ほんの少し悔しくなる。なので、
「馬車じゃなくてВаша、英語で言うなら『Yours』、つまり、『あなたのものよ』」
もう一度、丁寧にゆっくり発音して説明する。
「んー、つまりどういうこと?」
私の努力を受け流し、男は青白く細い首を傾げる。
「つまり、四迷は『あなたのものよ』を『死んでも可いわ』って訳したわけ。だから、『月がとっても青いなあ』に対して『死んでも可いわ』だと、『愛してる』に『あなたのものよ』って答えてることになる。それってちょっと噛み合ってなくない?」
「ああ、そういうこと。なるほど理解。じゃああい、今度こそ。愛してる」
「私も」
季節は春で、月は冴え冴えと青く、私の隣には愛する人がいて、私はそのしあわせにただ酔いしれていた。
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